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妄想型統合失調症 ― ある兄妹の物語

著者:ジョージア・P・ブラウン  訳者:林 建郎
私の兄リチャードの病気は、4年前、坂道をゆっくり下るように始まりました。その時兄は26歳でした。彼は21歳という若さで結婚し、4年ほどして夫婦は息子に恵まれました。その子が生まれる前から、いくつかの問題がすでに表面化していました。兄は定時制の学校へ通っていたのですが、そのこと自体は彼の妻にとっても好都合でした。しかし問題は、学校に通う間リチャードが仕事をしたがらないということでした。彼はとても待遇の良い勤め口を退職してしまったのです。その理由も、会社の引越しでダンボール箱を運ばされるのが嫌だからというものでした。そんなことは自分のやるべき仕事の範囲外であるから拒否する、という理屈からその会社を辞めてしまったのです。その後彼はうつ病の発作に襲われ、1年半くらい悩まされていました。

 ごく身近な家族以外に、リチャードが外部の人間と接触することはありませんでした。彼は学校をやめ、仕事にも就かないでいました。学校をやめたのは、教師が人種差別主義者であり、彼の成績が良いにもかかわらず落第点をつけたからという理由からでした。それから彼はテレビを見ながら夜更かしをする毎日を過ごすようになりました。フルタイムで働いていた妻が妊娠したのはこの頃のことです。リチャードは、義父母が彼の食事に毒を盛っているなどと言い始め、生まれた息子の父親は自分ではないと言い張りました。妻が彼の親友と密通して宿した子供だと言ったそうです。彼の妻は医者へ行き診てもらって欲しいと懇願したそうですが、その願いは聞き入れられませんでした。仕方なく彼女は自らカウンセリングを受け、ある日、いろいろと手を尽くしたがもうこれ以上何を試しても無駄だと思う、別れて欲しいと彼に切り出したのでした。

 兄が結婚した年の秋、私は大学へ通うために実家を離れました。私はまだ16歳でした。私は自立心が強く、大学を卒業したらもう実家には戻るまいと心に決めていました。そして職を探し、アパートも借りました。ですから前段に書いた兄に関する話しは、私自身がこの眼で確かめたものではなく、すべて人づてに聞いたものです。兄が働こうとしないこと、学校へ行かないことなどは知っていましたが、私と会うときの兄はいつもと変わらない様子でした。

 子供の頃兄はとても恥ずかしがり屋で、他人とはいつも穏やかな口調で話していましたが、私や弟だけになると、「自分が親分」であることをためらわず主張しました。私たちは遊びにも喧嘩にも手を抜くことはなかったのです。私はいつも弟と組んで、リチャードに対抗しました。兄と対等に争うためには、私たちは組んで立ち向かうしかありませんでした。しかし全体的に言えば、私たち兄弟は仲良くやっていました。幼い頃の私は弟との方が仲が良く、彼に親近感をもっていました。リチャードは典型的な長兄といった性格で、妹の私がつきまとうことを嫌がりました。私と弟は、私が姉さんタイプでない分、違った関係で繋がれていました。私たちは何をするのも一緒でした。

結婚するまで実家に住んでいたリチャードは、離婚したあとまた独りで実家へ戻ってきました。ちょうどその頃、両親はフロリダへの移住を決意し、母、兄そして弟を残してまず父が引っ越して行きました。私がキャリアを積むために大学院へ通い始めた頃、兄の容態は着実に悪化して行きました。兄による言葉の暴力と攻撃的態度が、断続的に、しかも予測のつかない期間続いたのです。しばしば母に向けられる言葉の暴力をめぐって、兄と弟は対立しました。或る日私が実家を訪ねてみると、掴みかからんばかりの2人の間に母が割って入り、懸命になだめている光景に出くわしたこともありました。リチャードには何を言っても無駄でしたが、弟は言うことを聞いておとなしくなりました。後で弟が言うには、母に対して暴言を吐いた兄を壁に叩き付けたのだそうです。兄はこれに腹を立て弟に向ってきたのでした。彼ら2人の身長は大差ありませんが、弟は兄に比べずっと頑丈な体格をしていて、体重の差は40ポンドもありました。私はこの点を指摘して、もし本気で喧嘩になったら弟は兄を殺しかねないし、彼もまた弟に同様の仕打ちをしかねない危険性を強調しました。この事件以降弟は、どんなに怒っても決して兄に手出しはしなくなりました。

父と母はリチャードのこととなると意見が一致しませんでしたが、私と弟はどちらかというと父の意見に賛成していました。リチャードは以前にも増して暴力的になり、激しく怒りを爆発させるようになりました。その頃には、金銭的にも両親が彼の面倒をみていました。

そんな兄が突然海軍に入隊すると言い出したのです。私たちは彼の気分が良くなったものと思って皆それに賛成しました。結局彼の海軍での生活は8ヶ月しか続きませんでした。どのような事情があったのかは誰にも判りません。基礎訓練を済ませ、彼の言う「炊事係」に回されたところまでは私たちも聞いていました。リチャードはいつも周囲から怠け者と見られていました。そして彼もまた自分が「くだらない」と考える仕事は、ほとんど例外なく拒否していました。彼が言うには、めまいと足の痺れを感じて何度か失神したそうです。彼は健康上の理由から海軍を除隊させられたと言っていました。彼の薬箱には、テグレトールという抗てんかん薬とパメロールという抗うつ薬がありました。彼は医師からそれらの薬を処方されていたのです。

海軍から除隊されたリチャードは再び両親と暮らすようになりましたが、その病状は前よりも悪くなりました。当初彼はコピー会社に技術者として雇われ、しばらくは何事もなく働いていました。やがて彼は、監督が彼の仕事を妨害していると言い出し、そして退職してしまったのです。弟はその頃高校を卒業して就職していました。母とリチャードが2人きりで過ごす時間が増え、私たちは母の安全が気になり始めました。彼女の安全のためには、兄と離れて暮らすことが必要ではないかと私たちは考えました。しかし母は、自分の息子を外に放り出すわけには行かないからと、私たちの助言を聞き入れようとはしませんでした。父はこれに反対意見で、母の安全が第一と考えていました。

この頃リチャードは、誰かに毒を盛られているとか、FBIがヘリコプターを飛ばして尾行している、「彼ら」が欲しいのは自分が知っている化学的な秘密情報だ、母親も「彼ら」の仲間だなどと言い始めました。そしてしきりに何かを書きとめていました。それは、古代エジプトの象形文字、化学方程式、HIVやAIDSに関するさまざまな理論、脳内化学物質に関する情報などでした。私はその文書を見ながら、不吉な予感を感じました。

私は新しいアパートに移り、引越しパーティを開きました。リチャードもそのパーティに参加してすべてスムーズに行きました。その1週間後、彼はなんの前触れもなく再びアパートにやってきました。その時は私の婚約者もいて、いきなり現れた彼に私たちはびっくりしました。私が彼を招き入れると、彼は額縁に入った絵を差出し、前の週のパーティに持参し忘れた引越し祝いだよ、といってそれを渡してくれました。訪問は和やかな雰囲気で終わり、兄は帰って行きました。

その2週間後、兄からの私宛に手紙がありました。私が渡した絵と額縁の中に重要な書類が隠されているので、保管しておいて欲しいという内容の手紙でした。彼の言う「書類」が、出生証明書やパスポートのようなものだろうと私は考えていました。しかし額縁を開けてみると、そこには以前私が発見した例の文書の入ったフォルダーがありました。私はどうしたら良いものか迷いましたが、結局リチャードの言うようにそれを保管して置くことにして、家族にもこのことを知らせました。

それから約1年経って、私が実家を訪ねる予定の日にそのフォルダーを持って来て欲しいとの連絡が、リチャードからありました。その日私は用事があり、立ち寄り先から母に少し遅れるからと電話を入れました。電話口に出た母の後ろでリチャードがフォルダーを忘れないようにと言っているのを聞き、私はそれを忘れたことに気が付きました。その時すでに家から1時間くらい離れたところに居たので、母には彼に事情を説明し、フォルダーは次の訪問まで待ってくれるよう伝えて欲しいと頼みました。実家に到着すると、母はすでに車道に出て待っていました。私はすぐに何か具合の悪い事が起きたことを悟りました。リチャードは私が書類を忘れたことをののしり、悲鳴をあげて、「今すぐ」引き返してフォルダーを取って来いとわめいていると母は言うのです。私は兄の説得を試みようと中に入りました。しかし戸口に立った途端、私は後ずさりしました。家の奥からリチャードが「雌犬!」などと罵る大声が聞こえてきたからです。私は警察を呼ぼうと言いましたが、母は賛成しませんでした。母はリチャードを独りにして、静かになるまで様子をみたいと言うのです。暫くして家にもどると、母がまず中へ入って、リチャードが落ち着いたかどうかを確認しました。そして再び外へもどると、リチャードが興奮するので、私は家に入らないほうが良いと言いました。母を独りその場に残すことにためらいを感じましたが、私たちは皆大人ですし彼女の判断に従うほかに方法はありませんでした。

また別の折りに、リチャードと私の婚約者が口論になったこともありました。それは、「立ち直る」ことに関してリチャードが発言したことへの返答が原因でした。彼は私の婚約者を指差してひどい言いがかりをつけ始め、あわや殴り合いになるところでした。母と私の二人がかりで婚約者を説得し、彼が帰っていったので、その場はなんとか収まりました。またある日、リチャードが母の居間にあるものを手当たり次第に壊し始めたことがありました。その時は、母はやむを得ず警察を呼びました。警察が到着した時、リチャードは落ち着きを取り戻して静かに座っていたそうです。駆けつけた警察官は、兄が居間の散乱状態を作り出した張本人だとは信じなかったことでしょう。しかし証拠がそこにある以上、兄も警察の調べに対し自分が犯人であることを否定しませんでした。

母は事件を告訴せず、兄も入院することを拒否しませんでした。彼は精神科病棟に約3週間強制入院させられました。退院した彼は、入院中自分の意思に反してハルドル(haloperidol)を投与されたとクレームをつけ始めました。ほんの数週間前に会ったとき、リチャードは投薬が原因で「自分の人生が台無し」になり、「以来体力が衰えてしまった」と言っていました。彼が入院中に一度だけ、母とリチャードの妻と私とで彼を見舞ったことがありました。面会はソーシャルワーカーが同席して、個室で行われました。リチャードは口数が少なく、薬物療法でかなり鎮静された様子でした。ソーシャルワーカーは、あらゆる検査を行った結果から彼の病気が器質性ではないこと、そして現在ハルドルとコジェンティン(Cogentin/benztropine/抗パ薬)が処方されていることなどを教えてくれました。その時は、彼の診断についての具体的な説明はありませんでしたが、私は彼が妄想型統合失調症と診断されたことを知っていました。リチャードは後になってこのことを認めましたが、それは医師の重大な誤診で、実際には砒素を投与されたのが原因と主張していました。

退院から3週間経って、リチャードは自殺願望を訴えて病院に戻りました。彼は外来診療へも行かず服薬も守らずにいたのに、自殺願望の原因が薬物療法にあると主張していました。彼はハルドルを注射されてすぐに退院しました。そして今日に至るまで服薬を守らずにいます。薬物療法を勧めただけで彼は怒りはじめ、その人間を信用しなくなるのです。

母は、弟や私そして父に対しても、リチャードの暴力的怒りのすべてを語ってはいませんでした。今はもう彼女がすべてを話してくれたのでわかりますが、当時はそのことを知りませんでした。母はリチャードの入院以来2度ほど私に電話をかけてきたことがありました。1度は彼が地下室に入ってすでに1時間も叫んだり罵ったりしているという連絡でした。その時は母が地下室の出入り口に鍵をかけたので、彼は上がってこようとはしませんでした。そしてすぐにおとなしくなったそうです。2度目の時には、母はまた同じ方法で対処したのですが、彼は4時間もわめき続けていました。母は警察を呼ぶことには反対でした。母の安全を考え、私が警察に電話をかけようかと思ったほどでした。ちょうど1993年の感謝祭前日の出来事です。

感謝祭の日、弟と私の婚約者それに私の3人で実家に母を訪れました。母はすでに、リチャードとは別れて暮したいという希望を私たちに伝えていました。私たちが実家に着いた時は、リチャードは落ち着いた様子でした。母がどうやって彼に家を出て行くよう伝えるつもりか、私には見当がつきませんでした。どのような反応を彼が示すか、まして一体どこで暮らせというのでしょう。夕食後、母がリチャードに家を出ていって欲しいと切り出した時、私と弟は母を囲んでその傍に立ちました。母は、その前日の彼の振舞いが彼女を不安にさせ、もう一緒には暮らせないと言ったのです。リチャードの反応は、いつものように予測がつかないものでした。彼は黙ってそれを聞くと、荷物をまとめ始めました。リチャードのために、弟はすでに社会福祉事業のケースマネジメントを申請済みでした。その夜彼はリチャードをモーテルまで送り、そのまま自分の家に帰りましたが、私と私の婚約者は実家に泊まることにしました。リチャードはその翌朝、ソーシャルワーカーに電話するはずでしたが、彼が電話したのは母親でした。「母さん、僕は一体どうすれば良いのだろう」と嘆くリチャードと、母はしばらく話しを続けたそうです。そして次の土曜日、私たちの反対にもかかわらず母は再び彼を実家に受け入れたのです。

リチャードは常に精神病の症状を示すわけではありません。時にはとても「普通」に行動し、自分の用事のことや友人のことなどを私たちに話します。彼の友人というのは、彼と同じような境遇の人々、つまり何らかの形で行動規範を外れてしまう、苦痛に満ちた精神の持ち主たちです。リチャードが時々は「普通」に振舞うものですから、彼の意思に反して、私たちが勝手に彼を施設に入所させることはできませんでした。母は自分の息子が「狂人」であることを認めようとはせず、彼がつねづね眩暈や手足の痺れを訴えることから、何かの神経疾患が原因という考えを長い間変えようとはしませんでした。リチャードは、医師などは何も判っていない、自分の悪いところは自分が一番良く知っていると言って病院での診察を拒み続けていました。彼の言葉による虐待や暴力的な発言は、より頻繁に起こるようになりました。そしていつも私たちを前にすると、自分の症状は様々な化学物質の汚染によるものであることを信じ込ませようとするのです。しかし事件が起こるたびに彼の症状は重くなってゆきました。母はいつも「まだあの子はそこまでひどくはないよ」と言い続けていましたが、やがてこの考えが間違っていることが証明されたのです。

弟はすでに家を出て、自分のアパートを借りて住んでいました。当初リチャードと彼は同居する予定でしたが、弟は兄の面倒を見たくはないと言って土壇場になって考えを変えてしまいました。その後リチャードにしばらく発作が起きない期間があり、弟は彼に警備員の職を世話してあげました。リチャードは自分でもアパートを借り移り住むことにしていましたが、家具が揃わないので引越しができないと言っていました。しかし実際には、彼は家具など持っていなかったのです。そのうちに彼は職もアパートも手放してしまいました。警備員の仕事では始終車に同乗していなければならず、対向車のライトがまぶしくて耐えられないのだと言っていました。アパートのことについても、寝室の配水管がやかましい音をたてるので眠れないと文句を言うのです。彼はあらゆる言い訳の達人になっていました。自分の非に帰する事など一つもなくて、いつも他人あるいは自分以外に原因をつくって責任を転嫁するのでした。母はこの期に及んで、彼に対する大きな失望を隠そうとはしませんでした。母はリチャードに、このままではやって行けないことを理解させたつもりでしたが、彼がそれを意に介することはありませんでした。

かなり最近の1994年3月頃、リチャードは母に20ドルを無心しました。母がこれを拒むと、彼はまた怒りの発作を起こしました。彼は大声でわめき、母をとてもひどい言葉で罵り始めたのです。とうとう彼女は折れて、彼にお金を渡してしまいました。兄は出掛けに玄関扉のガラスを手で叩き割り突って行きました。私が母を訪ねた翌日にも、まだガラスの破片が床の上に散乱していて、血痕も残っていました。兄は救急治療室で手当てを受け、何針か傷口を縫ったそうです。母がそれを知っている理由は、兄が病院から医師に電話させたからです。その日の夜、ホームレスシェルターの男性から母のところに電話があり、シェルターは満員でリチャードを受け入れる余裕がないとの連絡がありました。母はその担当者に、リチャードが家に帰らない限りどこへ行こうと構いませんと伝えたそうです。

母がフロリダへ引っ越すまで、リチャードは時折実家を訪れていました。私たちは、ひとりの時には彼を家に入れないよう忠告したのですが、母は聞き入れませんでした。リチャードの症状は改善せず、服薬も守っていませんでした。私が彼と最後に会ったのは、母の出発を手伝いに行ったときの事でした。リチャードが話しかけてきても、私は聞き役に終始しました。彼とのまともな会話は実質的に不可能ということを悟ったからです。彼はハルドルの注射を受けて気分が悪くなったこと、「誰か」が彼に砒素を盛っていることなどを長々と話していました。母の準備ができて私たちが出発しようとしていると、彼が皆で俺をのけ者にするというようなことを言いました。母がそれに反論すると、彼の怒りはエスカレートし始めました。私は母にこのまま何も言わずにここを離れた方が良いと言って、彼女を車に乗せて出発しました。彼は玄関の階段に座っていました。私には彼が感じたであろう寂しさと悲しさを理解できます。けれども再び彼に会いたいかどうか、未だに自分には自信がありません。母は、リチャードを赤ん坊から育ててきたのに、彼の本当の姿が判らないと言います。彼女は思い出話に、リチャードがいかに行儀が良くおとなしい子供だったかを話すことがあります。そして彼が暴力的な言葉を浴びせ、乱暴な行動をとるのを見るにつけ、これが果たして本当に自分の息子なのかどうか分からなくなるとも言います。私には母の気持ちが理解できるし、彼女にとってリチャードの病気を受け入れることがいかに辛いことかが分かります。今までリチャードと共に暮していて、母が無事だったことが本当に良かったと思っています。彼がこうなるまで、何の徴候もなかったことが私には信じられません。兄が成人して精神病を診断されるなどの予兆はまったくありませんでした。私は兄がいつも好きだったわけではありません。彼はいつもわがままで、私から見れば両親に甘え過ぎていたと思います。しかし、こうなる兆しを感じ取ったことはまったくありません。

私と弟との会話で時たま話題となるのは、両親に対するリチャードの仕打ちへの当惑と怒りです。母は時々、一体自分のしつけのどこがいけなかったのかと自らを責めます。私はいつもそれが母のせいではないと宥めるのです。私とリチャードとの関係がどのようなものであって欲しいのか、あるいは関係など持ちたくないのか、自分には分かりません。ただ、今とは違うより良い関係を望んでいるし、兄には健康でいて欲しいのです。リチャードとは昔のほうがよい関係にあったと思うことがあります。彼はもっと話せる兄でした。しかし私は自分を責めようとは思いません。私に落ち度は一切ないのですし、会話の無益さも経験しました。

兄の病気が私にまったく影響を与えなかったといったら嘘になるでしょう。私はめったにリチャードの病気のことや病名を他人にはあかしません。自分自身が当惑するからでもあるし、彼の秘密を守ることに大きな責任も感じるからです。私が兄の立場であったらば、妹に自分の病のことを会う人毎に喋って欲しくはないでしょう。ですから兄のことは、ほとんど話題にすることはありません。そして、リチャードがどのようにして弁護士になったのかもお話ししたならば、きっと家族の名前も出さざるを得なかったでしょう。今はその時ではないと思い、私はこの話題に触れずにおきます。この物語は私だけのものではなく、リチャード、私の両親、そして弟の物語でもあり、彼らは必ずしも語られることを望んではいないからです。多くの理由から、私は子供を持つべきではないと考えています。その主な理由は、リチャードと私の両親をずっと見てきたことにあります。感情的な動揺と常時背負うことになる圧倒的な責任感、それに加えて、失望感や罪責感、怒りと絶望に耐えられないことを私は知っているからです。しかしその反面、兄の病気は私を強い人間にしてくれました。
筆者について

ジョージア・P・ブラウンは、ホフストラ大学の卒業生で、現在セイブルック研究所において心理学を学んでいる。彼女はまた精神健康マネージャーでもある。著書には詩集「陰と光」などがある。


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