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統合失調症の社会的、経済的そして医学的影響

著者:匿名寄稿  訳者:林 建郎
統合失調症という病が私から生活の自由を奪ったのは、27歳のときでした。何ヶ月もの間、とくに最初の6ヶ月はそれが私の生活そのものとなって、そこから逃げ出そうにも方法がありませんでした。以下は、統合失調症が私に与えた影響の回想です。言葉を換えれば、不幸にも私が罹患してしまった疾患の主な症状と、いかにして私がこの病の社会的、経済的そして医学的影響を克服したか、または少なくとも過去のものとしてきたかの短い考察です。

罹患してまず現れたのは、幻聴でした。いろいろな声が聞こえてきました。お喋りしている声、議論している声、自分を傷つけろ、あるいは自殺してしまえと喧嘩腰で私に命令する声などです。それはまるで、天国で裁判にかけられ、自分の犯した過ちに対して神から有罪を言い渡されているような気分でした。そしてまたある時には、反逆罪に問われて国家から追われているように感じることもありました。

その声は、アパートの部屋の壁そして洗濯機や乾燥機から聞こえてくるのです。まるで機械が直接私に話しかけ、あれこれ指図するかのようでした。政府の捜査官がアパートのどこかに発信機と盗聴器を埋め込んで、私に彼らの声を聴かせ、彼らには私の声が聴き取れるようにしているのだと私は思い込んでいました。服にも盗聴器がしかけられ、外出時の行動なども見張られているような気がしました。四六時中休みなく監視されているような気がしていたのです。

しかし、この気分はその当時に感じたことであって、今から思えば政府に対してなにか反感を持っていたわけではありません。常時監視されているという気分は、若い頃の私の行いに対する神の僕たちによる懲罰(地獄での懲罰に似た現世における懲罰)、あるいはまた、単純にそれを空想していたのだろうと今の私は考えています。

今ひとつ経験した症状に、思考の伝達と放送があります。当時私は、ただ自分が考えさえすれば、その考えはラジオやテレビを通じて放送されるものと思い込んでいました。例えば、ニューヨークのラジオ放送で活躍していたニュース解説者バリー・ファーバーのコメントに自分が同意できない時、彼との「会話と議論」に巻き込まれるのを私は恐れていました。ファーバーの解説に長い合間があると、その間に私の考えが放送されるように感じたのです。

H・S・サリヴァンは、統合失調症に関する彼の著書のなかで、この疾患が思考の混乱した状態や混乱した行動様式をもたらすとしています。これはまさしく私の経験した状態なのです。私はこの精神病の発症とともに、完全に解体した状態に陥りました。自分のからだを清潔に保つことができず、洗濯、運動、食事の用意もできないばかりか、注意力もなくなり、本を読むことははおろか新聞やラジオにも5分以上集中することができなくなりました。常にめまいを感じていて、思うように身体を動かすことができず、ほとんどの時間を寝て過ごすしかありませんでした。

ロバート・タイビは、「統合失調症;悪夢の日々」と題したカレント・ヘルス誌1993年10月号の記事の中で、統合失調症の発症は特定の強度または特定の種類のストレスが引き金になるとしています。私の場合はこれが当てはまるでしょう。

発症したとき私は、ミシガン州デトロイト市でロースクール(法律専攻大学院)に通う学生でした。年初に優等生リストに載るほどの優秀な生徒だったのですが、悩みを相談する友達も親戚もいない、隠遁者のような生活を送っていました。そして、ロースクールでのストレスは、高校や大学とは比べようもないことに気づき始めていました。おまけに上等な町着をほとんど持たなかったので、外食することも観劇に行くこともめったにありませんでした。外出したあとで、数少ない上等の洋服を常に洗濯しなければならないと私は考えていたのです(病気のせいで徐々にこの考えは薄れて行きましたが)。毎日あるいは1日おきに-毎週あるいは隔週でも同じですが-同じ衣服を着ることは間違った行いであると私には思えました。

病気の発症と同時に、病院へ行き相談しようと考えたこともありました。しかし発病まで何度か経験したように、明日には症状が治まり、また新たな日々が始まるのではないかと期待して、その必要はないと考えていました。

その一方では、病院で診察を受け精神科に回されて自分が「狂人」とレッテルを貼られてしまうことへの恐れもありました。これはなんとしても避けねばならないことでした。当時私は法律家を目指していたからです。しかしニューヨーク戻ってからは症状がひどくなり、何とかしなければ命にかかわると考えるようになりました。

デトロイトにいた頃から、私はユダヤ教寺院の礼拝に定期的に参加したいと考えていました。結局それは無理でしたが、可能であったなら私の回復も早かっただろうと思います。ユダヤ教には、貧しい時に神の戒律を守り律法の訓示に従う者は、富める時にそれを行うことになるであろう、その反対に、富める者が律法に示されたとおり神の法に従わず反抗する場合、それを貧しい時にも行う危険を覚悟しなければならないという意味のことわざがあります。

H・S・サリヴァンの統合失調症に関する主張や仮説の多くを私は支持します。一例をあげれば、発病時の患者の立場(例えば人生における経験、成功や失敗)が予後を部分的に左右するという説です。私の場合その点で有利なものでした。

例えば高校時代の私は、優等生クラスで授業を受け、ウエスチングハウス社主催の科学適性試験の最終選考に残った経験がありました。大学は一流校のマッギル大学を卒業、発病前はロースクールの履修課程を1年半無事に終えたところでした。回復後はニューヨーク大学で学び、パラリーガル(法律家補助員)の資格免状を得、さらにプラット・インスチチュートでは図書館学の修士号を修得しました。そして現在は、地方自治体の議会図書館で優秀な司書として働いています。

また、短期間であれ性的対象との満足した関係を確立した人には発病が少ないというサリヴァンの説にも賛成できます。私自身、永続的で満足のゆく情熱的な関係を結んだ経験はありません。

結局、発病は私にとって人生の分岐点でした。新たな状況に適応し向上の努力を継続するか、何もせず運命のままにまかせるかの岐路に立たされた私が選んだのは、前者でした。

私は自分の信仰であるユダヤ教から、とても多くの恩恵を受けました。ユダヤ教は、疾患によって大きく弱体化した社会性の改善を助けてくれたのです。献身的な神の僕となることによって、ユダヤ教信者仲間との宗教的経験を共有できました。そうすることによって社会的活動が活発になり、友人もできました。

統合失調症の医学的影響を乗り越えるためには、服薬をまもりその効果を注意深く観察しました。セラピストそして精神科医との良い関係をもてたことも幸いしました。近くの病院に勤務するあるセラピストには、最初の入院当時から世話になっていて、頻繁に連絡をとりあっています。彼女のアドバイスを私は全面的に信用しています。私が規則的に服薬を守っていることは、おそらく入院せずにいられることの最大の原因でしょう。これは自分自身の観察からばかりではなく、スキゾフレニア・ブレティン誌の研究調査記事などを読んで得た結論でもあります。

そして最後に、両親の愛情と彼らとの良好な関係も回復の助けとなったことを付け加えておきます。デトロイトで私がとてもひどい状態にあった時、助けに駆けつけてくれたのは父でした。父があの試練に理解をもって耐えてくれたことに感謝しなければなりません。そして彼にはもう2度と同じ迷惑をかけたくありません。両親がどれだけ私を助けてくれたか、そのすべてを筆に尽くすことはできません。地域での診療を受けていた頃には私を診療所まで送り届けてくれ、学生の間は金銭面でも精神面でも支援してくれました。今でも昼食や寝床の世話から通勤駅までの送り届けなどで、私を支えてくれています。

結論からいえば、統合失調症の克服は容易ではありません。しかし回復の助けとなるいくつかの要因をあげることはできます。疾患の医学的影響から私を助けてくれたのは、治療薬を正しい投与量で継続的に服用すること、そしてセラピストや精神科医と信頼関係を確立すること、この2点があげられます。私の場合、疾患の経済的影響を克服できたのは、予後が有利であったこと、社会的影響を克服できたのは、宗教が助けとなったことです。そしてもちろん、両親の愛情あふれる支持があったことはいうまでもありません。
筆者について

匿名寄稿


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