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嵐の中の航海

著者:ルス・マロイ  訳者:林 建郎 [Schizophrenia Bulletin Vol.24,No.3,1998]
青年期の私は、寛大で聡明な尊敬すべき父が、原因不明の精神障害で治療も受けぬままにすべてを失って行くのを見ていました。彼は、いかにして自分に対して企みを謀っている周囲の人間を出し抜いたかを、ありそうもないいくつもの話を、語って聴かせてくれました。彼の謎に満ちた発作は、精神分裂病の穏やかな症状のひとつだったのでしょうか?多分そうでしょう。

私が結婚し子供が生まれてからは、彼等がこの祖父から受け継いだかもしれない精神病の遺伝傾向を、子育ての技術で埋め合わせることを試みました。しかし皮肉なことには、夫の家系にも精神病患者のいることが後になって分かりました。そもそも、ゆがんだ家庭環境や幼年期のトラウマが精神分裂病をひきおこす原因ではないのです。私達の8人の子供のなかから、3人が精神分裂病になったのは、おそらくどうやっても避けがたいことだったのでしょう。

カナダ精神分裂病協会のシルヴィア・ガイストさんは、その博士論文のなかで、精神分裂病に対処することを、嵐の中の航海に喩えています。私達の嵐の中の航海は息子が18歳の頃に始まりました。我々は、彼が顔にあらわす表情の変化に気づきました。それは精神分裂病患者に特有の眼の動きのせいだったのかもしれません。彼はその夏、外出からかなり遅く帰るようになり、秋には学校をかえました。娘は彼の車のトランクの中に、競技用の号砲(starter pistol)があるのをみつけました。それは、彼が無線機を使って警察無線を傍受し始めた頃のことでした。これらの出来事は、その時よりもむしろ後になってより一層意味を持つようになりました。

やがて息子は、彼が恐れている不良グループが私達家族を襲いにくる、と言い始めました。授業が終わってアパートへ戻るのにも用心のために暗くなってからにしている、そのために学校もかえ、彼らを威嚇するために銃もかった、彼らが無線を使って陰謀を練っているのが自分には傍受できる、と言うのです。私は彼が精神病ではないかと疑いましたが、夫は彼を信じました。私は彼の学校へ行き、校長に話を聞くことにしました。校長は精神科医のところへ行くことを薦めましたが、私は父との経験から、家族を精神科医に診せることの困難さをよく知っており、暫く様子を見ることにしました。

1月になると、彼は外でビール飲み、酔って家にかえると、その勢いてお皿や家具を壊し、一緒にいた弟のひざの上に食卓のものすべてをぶちまけてしまいました。さして血まみれの顔でそのままアパートをでると、何処ともなく姿を消したのです。我々は警察へ通報し、近所を歩き回って彼を探しました。地下鉄のホームで血痕を見つけたので、多分彼は地下鉄にのったものと推測して、我々は家に帰りました。彼の弟がアパートのロビーに居る彼を見つけたのは、翌朝の6時のことでした。彼はアパートの自室にもどるとすぐに寝てしまいました。

彼が寝ている間に主人と私は相談し、そして主人の強い希望で精神科医にみせることにしました。その夜、私には彼を病院に連れて行ける自信はありませんでした。私は彼の部屋へ行き、寝ている彼に大きく息を吸い込んでから、こう言いました。「ねぇ、あなたは今まで長いことひとりでやってきたわ。あなたには助けが必要よ。一緒に病院へ行きましょう。」奇跡的にも彼は、その願いを聞き入れてくれました。

彼はしかし、入院させては貰えませんでした。病院のインタビューの結果、当分の間は外来患者として扱うといわれました。その後の診察で、精神科医から青少年団体のカウンセリングを受けてはどうかと勧められました。しかしこの試みは失敗に終りました。いくつかの奇妙な質問に答えた挙句、息子は再び病院の外来に戻るようカウンセラーに言われたのです。学校の教師が、彼がかなりの精神錯乱状態にあるのに気づき、学校の費用でタクシーを呼んで彼を病院へ運んだのはその翌週のことでした。今度は彼の入院は認められました。

思い返して見ると、この時の入院では期待していていたほどではないにせよ、適切な治療を受けられたと思います。我々は特に一風変わった家族ではありませんが、ウォルトン一家(テレビ番組)のように道徳的な家族ではありません。

当初私は、愚かにも彼の精神異常がゆがんだ家庭環境の影響に起因するもの、と思いこんでいました。それに彼に施される薬物療法も好きではありませんでした。彼が、薬が気に入っているというものですから、もしや薬物中毒をおこすのではないかと心配になりました。退院してからは、彼は毎日の治療を何ヶ月かにわたって受け、それから毎週治療にかわり、しばらくした後にグループホームへ入りました。

息子の最初の自殺未遂は彼がそのグループホームにいるときに起こりました。私は彼の入院直後からスクラブルをはじめていて、彼も私もそのゲームをするのが楽しみでした。彼にとって母親をこのゲームで負かすことは、自信を回復するうえでとても効果がありました。彼の認知機能のためにもこのゲームで遊ぶことが有効であったといまも確信しています。彼は代償不全を起こしているとき以外には、常にこのゲームに勝ちつづけていました。ですから私が勝ち始めことは、彼にとって再発の始まりが近いことを意味したのです。ある晩、二人でスクラブルを遊んだあと、彼は階下へ行って睡眠薬を一握り飲み込み、自殺をはかりました。何も変化が起こらないので、彼はその足で病院へ行き、話相手をさがしました。薬が効き始めたのはその時でした。その夜は危機一髪で彼は命をとりとめましたが、私は数日後に彼自身から電話でこの話を聞くまで、そんなことになっていたとは知りませんでした。

それから18年間、私の自殺予防監視は続き、更にその後の10年間は普段着のまま就寝する生活が続きました。その間2度自殺未遂がありました。現在の薬物療法を始めてからは自殺の傾向を見せないようになりましたが、いまだにいつでも病院へ行けるだけのガソリンを自分の車には常時入れておくように心がけています。

私達が嵐の中への航海を始めた頃は、子育ての最中でした。そして今は、もう我々も中年夫婦になりましたが、まだ、気の優しい元気な身長4フィート11インチの娘を育て上げねばなりません。彼女の病気は14歳の時、登校拒否と行方不明から始まりました。彼女にどこにいたの?とだずねても"知らない"というばかりなので、私は彼女の身の危険を案じて、護身のために武道を習わせることにしました。それが後にはわざわいして、発作を起こして緊急入院する彼女を取り押さえるのに男3人がかりになったこともありました。

最後には彼女は、自分の方から助けをもとめ、16歳の誕生日を精神病棟で過ごすことになりました。宇宙人が彼女をさらいにくるという妄想におびえながら。この時、彼女は5日間入院した後退院しましたが、その後は地域の青年カウンセリング・エージェンシーへ紹介してくれただけで、治療はなにもしてくれませんでした。成人病棟に入るには若すぎて、青年病棟には空きベッドがなかったのです。

その夜、我々は彼女を「助けの必要な子供には必ず応える」をモットーにする近所の小児科病院へ、連れて行きました。そこで彼女はほぼすべてにわたる健康診断をうけ、今ベッドに空きが無いので入院はできない、翌朝電話をして検査結果を聞きにくるようにいわれました。診察は早くて3週間後だというのです。あきれて私は強く抗議しましたが、結局は彼女を家に連れ帰りました。

その後の7週間はなんとか自宅でやりくりしていましたが、やっとその病院のベッドに空きができ、入院して治療をうけてみると、その内容は彼女の兄が受けたものにくらべて著しく質が劣るものでした。おまけに屈辱的だったのは、彼女の担当セラピストは、それまで7週間を共に過ごしてきた両親の面会を拒否したのです。娘は何日もなきわめきました。その病院はその後、改善されましたが、この町の青年病棟のベッド数は絶望的に不充分であることにはかわりありません。

この時の入院の影響は長く尾を引きました。娘の病院にたいする信頼感はなくなり、その後10年間、彼女が入退院を繰り返した病院は10を数え、6種類の異なる抗精神病薬を試みました。何人ものコミュニティ・ヘルパーの助けを断わり、誕生日を病院でさらに2回過ごすことになったのです。大きな転換点となったのはクラーク精神医学研究所の地域融和プログラムに参加してからでした。このプログラムでは学際的チーム療法が取りいれられました。個々の患者にはケース・マネージャーがつき、さまざまな分野の専門家から構成されるチームにケースを割り振るのです。この取り組み方法の成果が十分に確立されたいま、私はこの治療方法をより多くの人達が受け容れることを心から望みます。

44歳になる長女は、私達の子供の中で三番目に精神分裂病になりました。正式な病名は分裂感情障害と呼ばれ、主な症状としては、子猫を殺せだとか、走ってくる地下鉄に飛び込めなどの声が聞こえる、というものです。最初に診断を受けたのは30才台の後半でした。年齢的に罹患のリスクは過ぎたと彼女は考えていましたが、精神分裂病は年齢を問わずに発病するものなのです。幸い彼女は指示には素直に従い、病気に対する理解もありました。彼女はそれまで妹に対して敵意を持っていましたが、自分自身に精神分裂病が及ぶに至ってそれも変わり、彼女達の仲は親密になりました。  

状況はかなり良くなりつつあります。適切な薬物療法のおかげで、三人の子供達の症状も安定しています。多くの精神分裂症患者がそうであるように、彼等もその症状ゆえに、職業的、社交的な機能が不完全になりました。でも今年は彼等のうちで発作のために緊急入院したのは一度だけ、それも短期のものでした。ここで少し、個人的な話から、気に入っている意見・所見について述べたいと思います。

私は精神分裂病患者は薬物療法を継続するべきという意見を強くもっています。もし法的にそれが強制できるとしたら、患者がトラブルにまきこまれる件数は減少することと思います。ましてや、薬物療法をやめた患者を再び安定させるための費用は、正当化することができなくなりつつあるのですから。

重度の精神分裂病患者が薬物療法を止めた場合、どうなるかの良い例があります。私の息子はあるとき、体重を減らすために服薬をやめました。2,3ヶ月すると彼の症状は突然再発しました。そして、病院への途中彼は道に迷い、気がついた時には突発的な精神錯乱状態でした。彼はバスの座席の上に立って、猥褻な言葉を乗客に向かってわめき散らしていたのです。彼はバスから下ろされて、歩いて帰ってきました。一方、娘はあるとき信仰療法に頼りました。その間、彼女は何日も我々と顔を合わせないことがありました。あるときなど3日間もまったく彼女が顔を出さないので、息子が部屋をのぞいたところ、彼女はベッドの上に脱水・飢餓状態で横たわっていました。彼女は、「宇宙人」が手首や足首に重力場を設けたので、ベッドから動けなかった、と言うのです。私達は彼女に食事と薬を与え、翌日動こうとしない彼女を救急車で病院に運びました。

私はまた精神分裂病の症状の陰性症状について家族がより知識を深める努力をすべきと強く思います。それによってかえって失望が増すかもしれませんが、こうした症状についての知識を得ることによって、薬物療法を否定する割合も減るでしょうし、将来に対する現実的な目標をもつことができると思うからです。

更に、ショック療法についても私は強く感じるところがあります。というのも、息子がショック療法を受けると言われたとき、私は随分と恐怖感を抱きましたが、その結果には正直いって驚きました。治療の1週間後にはもう退院できたのですから。今日用いられている電気ショック療法は、昔のインシュリンショック療法とはまったくの別物なのです。それは、安全・効果的で、人道的かつ認知された療法です。以前からショック療法による副作用といわれてきた記憶喪失は、実際には精神分裂病の症状のひとつであるという考えに私は強く組します。息子は電気ショック療法を2度にわたり受けましたが、ショック療法を受けたことのない娘よりも、はるかに記憶力があります。

最後になりますが、幸いいまや時代遅れになった家族原因説について一言のべたいと思います。精神分裂病患者とその家族にはまず協力が欠かせません。家族原因説は悪意に満ちた、非生産的な考え方であり、本来自然発生的な相互協力の気持ちを徐々に蝕んで、責任のなすり合いにしむけるもの、と私は考えます。

もうひとつ心から信じていることがあります。ストレスは精神分裂病の原因ではない、ということです。ストレスは症状を悪化させることがあるかもしれませんが、基本的な原因ではありません。私達の嵐の中の航海は、ストレスに満ちたものでした。もしストレスが原因となるのであれば、私達一家はどうしようもない事態に陥っていたでしょう。そうはなりませんでした。私達は、ウォルトン一家のような家族ではありません。けれども結束の強い、良い家族だと思います。
筆者について

ルス・マロイは米国に生まれのカナダに帰化した。中学・高校を米国で教育を受けトロント大学で学士号・修士号を受ける。1994年、トロントのクイーン・ストリート・メンタル・ヘルス・センターの英語教師を退職し、現在はヴォランティアで神経分裂病患者の支援活動をしている。彼女は以前、神経分裂病協会のオンタリオ・イースト・ヨーク支部長を務めた。


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