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悲観論者の成長

著者:ティム・ウッドマン  訳者:林 建郎 [Schizophrenia Bulletin Vol.13,No.2,1987]
精神科医との接触を最初にもったのは1972年のことでした。当時私は英国海軍に9年間服務し、除隊したばかりでした。24歳、独身で、自分自身にも、また自分の処世術の下手さ加減にもうんざりし、友人、特に女友達がなかなかできないことに不満をもっていました。その頃私は両親とともに暮していましたが、彼等との間に言葉ではうまく言い表すことのできない緊張が大きくなってゆくのに気づいていました。このことは私の孤独感と絶望感をさらに深いものにし、やることなすことのすべてが、自分の感情を鋭敏なものにしてゆくと感じる悪循環に陥っていたのです。それはある日、ジアゼパムを飲みすぎて近所の緊急精神病棟に入院したことで、頂点を迎えました。担当医は私を診察しましたが、薬は処方しませんでした。これは別 のルートから得た情報ですが「私のような症状に利く薬はまだできていない」というのがその理由だったそうです。しかしその病棟には、私に必要なすべてがそろっていました。刺激、会話、創造性と寛ぎのすべてがそこにあったのです。確かにそこにいるほとんどの人々は病人ですから、社会復帰するには理想的な環境ではなかったかもしれません。しかし、人生のストレスからの休息という、私にとって一番必要なものを与えてくれる場所でした。

それでもなお私は不満をかかえ、疎外感をもっていました。それは誰を責めるわけでもない、私自身の問題でした。けれども自分の行動にはかなり大きな変化を感じていて、感情は穏やかなものになりました。しかし、どちらの方向へ私がすすむべきなのかには迷いがありました。病院のスタッフは、私が正しい方向へ進むことには、なんら手助けをしてはくれませんでした。結局、彼らの仕事とはそういうものなのでしょうか?6カ月間を外来患者として何も快方へは向かぬ まま(少なくとも私にはそう思えました)に過ごした後、担当医は、職に就いて、集団治療グループに入ってはどうか、と私にすすめました。そのどちらにもあまり乗り気ではなかったのですが、何か仕事はしなければなりませんでしたので、地元の病院で階段教室の清掃人(とても啓発的な職業とはいえませんが)の職を得ました。その病院のスタッフのほとんどが、そんな取るに足らぬ 職業に就くなんて、私は取るに足らぬ人間なのだと考えているようでした。寂寥感が心の中でひろがってゆき、離人的な気分を伴うようになりました。

集団療法のほうでも私の成績はあまり芳しいものではありませんでした。誰も他人を助けようなどとは考えてはおらず、自己存在からくるプレッシャーを、他人を攻撃することによって抜いているだけ、と私には映りました。集団療法は大嫌いでしたが、週に2回はそれに通いました。なんら社会的コンタクトをもたないよりも、そちらのほうがはるかに好ましく思えたからです。独自に行動し、他人とつきあうには、私の性格は内気に過ぎたものでした。グループに入ることによって、勇気付けられることを期待しましたが、多分自分のせいでもあるのでしょう、期待していたことは起こりませんでした。その時も、そして今にいたるまで、不安の全体像が私にはしっかりと把握できてはいません。

話を少し端折って申し上げますと、私はその後も、昔の職業であった航空機の整備士を含め、取るに足らぬ 仕事を転々としました。その間もまったく自分自身になりきれず、それにどう対処してよいかもわかりませんでした。結局ある病院の病理分析車の運転手になり、そこで2年間を勤務しました。この頃には、私の離人的な感覚は頂点に達していたものの―(自分でもどのようにしてか分からないのですが―なんとかやっていけていました。この時(1976年)、すでに両親はニュージーランドへ移住し、前からそこに住んでいた私の姉/妹一家とともに暮すことになりました。私が推測すv芦るに、両親は孫たちに囲まれて暮したかったのだと思います。私は近所の共同住宅に移り住みました。

1977年までは何とか勤めを続けていられましたが、私の心の中は苦痛に満ちたものでした。身の回りに起こることすべて、または周囲の人達の言葉がすべて自分に向けられているように感じられたのです。幻視や幻聴はありませんでしたが、非常に奇妙な身体感覚に悩まされていました。それは身体イメージの幻覚とでも呼べるかもしれません。この頃、私の仕事のレベルは(行動も含めて)ひどく低下したために、上司が見かねて、5年前の時と同じ病院の精神科医との面 接を段取ってくれました。どのようにして、面接をうけたかは分かりません。とにかくだいぶ混乱していましたから。もちろん私はその後入院することになりました。

今回の治療は、トリフロペラジン、クロルプロマジンおよびフルペンチキソールなどの薬の完全武装で行いました。「よし。これでやっと自分を変えることができる」と、調子のよいときの私は考えたものでした。しかし残念なことに、病院のスタッフは私にやりたいようにさせるだけでした。私自身が不安状態だったせいもあり、私のまわりには同様に不安状態の患者が集まってきて、彼らの奇妙な行動が私をさらに混乱させる状態になってしまいました。類は友を呼ぶとでもいうのでしょうね。

3週間ほどたつと、投薬のおかげで私の状況は徐々によくなりました。極度に重症の患者は私を相手にはしなくなり、やや軽症の患者たちとの交流がもてるようになりました。病院のスタッフはまだ私を放置したままでした。彼らには私の病気の原因が分かっていないのでしょうか?分かっていたとしても私には教えてはくれませんでした。私はただ、座って誰かとゆっくり話をしたかったのですが、何を話せばよいのかが分からなかったのです。2カ月後には同じ病棟のリハビリ・ユニットに移ることになり、鍵のかかる個室を与えられました。プライバシーの必要なときには、いつでも鍵を自分で掛けることができる部屋でした。私はここで、料理や洗濯に掃除、自分や仲間のリハビリ患者のための買い物などをして、かなり自主的な生活を送りました。でも何よりも私を救ってくれたのは、芸術療法でした。私は絵を描くことに大きな満足を得、それによって、人格調和への暗黙の欲求が幾分かでも満たされるように感じました。

その一方で、担当の精神科医は面接で私につらくあたりました。怒りをあらわにするので、私にはどうすることもできませんでした。多分私を嫌っていただけなのだと思います。6カ月後の1978年、私は退院し、フルペンチキソールとプロスィクリジンの投与は続けながら、あまり実入りの良くない仕事を転々としました。やがて私は、プロスィクリジンを2錠のむと、耐えがたい状況の時も自分の気持ちを変えることができるのを発見しました。本来の使い方ではないことを知ってはいましたが、私にはそれがどうしても必要だったのです。

1979年、中近東勤務の航空機整備士の仕事に就きました。この就職にあたっては自分の病歴は隠していたため、外地へは薬を一切持たずに出かけました。そして6カ月後、病気は再発し、会社の飛行機で私は送還されることになったのです。英国へもどり、またもとの病院に再入院しましたが、担当医は別でした。

この時は1977年の入院ほどひどくはなく、症状こそ同じでしたが、その度合いは異なりました。2週間ほどで快方にむかい、リハビリ病棟に移された私はそこで素敵な女性患者と知り合いになり、交際するようになりました。私は休みをとって、自分の体内から、「中近東」と「病院」を洗い流すのも悪くないと考え、家族の移住したニュージーランドへ2カ月のあいだ遊びに行くことにしました。1980年のことでした。旅行を終えて英国へもどってからも私は前述の女性と付き合っていましたが、景気が悪くなり、仕事が見つからず、その後3年間を失業保険をうけて暮しました。

残念なことに、私はその女性との交際に何か欠けているものを感じつつありました。彼女の知的レベルが十分ではなかったのが原因ではなく、ただ二人のあいだには共有できるものが少なv芦すぎたのです。1983年になると彼女は他の男友達ととっかえひっかえ付き合うようになり、私達の仲も終わりになりました。つまらない話です。それでも自分の性格を変えたいという欲求は少しも衰えずに持っていました。自分が調子外れなことは感じていましたが、多分薬のおかげでしょう、以前よりもずっと社交的になった気がしました。私は現在障害者用アパートに住み、航空機整備士として働いています。人生はいまだにかなり単調ですが、フルペンチキソールが助けになってくれます。プロスィクリジンの服用習慣は断ちました。

精神科のプロフェッショナルの方々は自らを「性格の改造者(changersof personality)」と称して宣伝しているように私には思えます。少なくとも私が彼らと接する時は、その点をこそ期待したのです。そのきっかけを多分私はつかみそこねたのでしょうか?あるいはそのきっかけの存在すら気づかずにいたのでしょうか?私は今、自分が1972年に居た場所から一歩も動いていないような気がします。あるいは、性格を変えることについて精神科医に過度に頼りすぎているのかもしれません.でも、必要なときに頼ることのできない治療専門家にはいったいどんな存在意義があるというのでしょうか。多分私は期待しすぎているのでしょうね。
筆者について

ティム・ウッドマンは現在失業中の航空機整備士で、メンタルヘルス関係の慈善ボランティアでもある。1年以内には大学へゆき、司書の資格を得たいとの希望を持っている。


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