これからの職場のメンタルヘルスを展望する:
産業保健心理学からの2つの提言
東京大学大学院医学系研究科精神保健学分野 島津明人
職場におけるメンタルヘルス対策では,うつ病などのメンタルヘルス不調の未然防止(第一次予防),早期発見・早期対応(第二次予防),メンタルヘルス不調により休業した従業員の適切な復職支援・再発予防(第三次予防)が行われています。事業所の中にも,厚生労働省の「労働者の心の健康保持増進のための指針」などに基づいて,従業員や管理監督者への教育・研修,相談体制の整備,職場復帰支援体制の整備など,メンタルヘルス対策に取り組む企業が増えてきました。特に,従業員数1000人以上の事業所では,95%以上の事業所で何らかのメンタルヘルス活動が行われていることが厚生労働省(2008)の調査で明らかになっています。
一方で,近年の労働者を取り巻く社会経済状況は,大きく変化しています。産業構造の変化(サービス業の増加),働き方の変化(裁量労働制など),情報技術の進歩に伴う仕事と私生活との境界の不明確化,少子高齢化,共働き世帯の増加など枚挙にいとまがありません。こうした変化を受け,職場のメンタルヘルス活動においても,メンタルヘルス不調への対応やその予防にとどまらず,個人や組織の活性化を視野に入れた対策を行うことが,広い意味での労働者の「こころの健康」を支援するうえで重要になってきました。こうした背景を踏まえ,これからのメンタルヘルス対策について,産業保健心理学の視点から,次の2点に言及したいと思います。
1点目は,こころの健康のポジティブな側面への注目です。誤解をおそれずに言うと,これまでのメンタルヘルス対策は,メンタル「ヘルス」と言いながらも,こころの「不調」をいかに防ぐかという点に重きが置かれていました。しかし,労働者の幸せ(Well-being)を総合的に考えた場合,こころの不調を防ぐだけでは十分ではないことは明らかです。労働者の強みを伸ばし,活き活きと働くことのできる状態,いわば「ワーク・エンゲイジメント」の高い状態をも視野に入れた対策が,労働者の本当のこころの健康につながると考えられます。ここで強調したいのは,こころの「不調」への対策が重要ではない,ということではありません。こころの不調と同じ程度に,こころの活力にも注目し,メンタルヘルス対策の活動範囲を広げる必要があるということです。そうでなければ,メンタルヘルス活動の対象は,一部の不調者を対象とした活動にとどまってしまい,事業所や企業全体,さらには社会全体でメンタルヘルスに取り組もうという動きにはつながりません。
2点目は,仕事以外の要因への注目です。これまでの職場のメンタルヘルス対策は,働く環境をいかに整えていくかという視点が中心でした。しかし,労働者のこころの健康は,職業生活だけによって決まるわけではありません。たとえば,家庭・地域での生活状況(家事,育児,介護などのストレッサーや家族・友人などからのソーシャルサポート),ワーク・ライフ・バランス,余暇の過ごし方,リカバリー経験(就業時のストレスから回復するための時間の過ごし方)などが労働者の健康と関連することが,近年の研究で明らかになってきました。つまり,労働者のメンタルヘルス問題を考える場合,働く環境に注目するだけでなく,労働者を取り巻く環境を多面的に捉え,包括的に支援する視点を持つ必要があると考えられます。
拙著『ワーク・エンゲイジメント入門』では,「健康でいきいきと働くとはどういうことか?」「そのために私たち一人ひとり,組織や職場はどんなことができるのか?」について分かりやすく解説したものです。働く人のこころの「健康」にかかわる研究者,産業保健スタッフ,臨床心理士,経営者,管理職,それに働く人たちに広く読んでいただきたい一冊です。
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