汝の敵を愛せますか
サクランボウが盗まれた、という記事を読んで、妙好人の足利源左のことを思い出しました。以前にもふれたことがあるのですが、源左は昭和5年89歳で天寿を全うされましたが、温和で誠実で希に見る人柄の持ち主だったといわれています。農業を営んでいたのですが、ある日、畑の芋が掘り起こされ、盗まれました。それを見て、源左は、芋を掘るのに手を傷めたのではないかと心配し、鍬を持ってきて畑のそばに置きました。源左の山に盗みに入った者が、盗んだものを背負おうとして、重くて立てないでいるところへたまたま源左がやってきて、後ろから力を貸して担がせてやった、というのです。振り向いた盗人は、荷を置いて逃げ去ったといいます。
サクランボを盗られたら、源左だったらどうするでしょうか。どう思うでしょうか。「サクランボを食べて、よろこんでくれているだろうか」「きっと子どもにサクランボを買ってあげられなかったのかもしれない。子どもたちが喜んでいるだろう」「他の人の畑のサクランボでなく、自分のところのサクランボを選んでくれた、ありがたい、ありがたい」「子どもだったらとりづらいだろうから、踏み台をおいておこう」というように・・・・
源左の場合は、盗人は、源左の行為に驚
いて改心してしまうのですが、源左はそれをねらっているわけではありません。
今の時代だったら、こうされた盗人は、どうするでしょうか。改心するでしょうか。それに乗じて盗みを繰り返すでしょうか。あるいは、盗んでいることを悪いこととは思わないかもしれません。サクランボを食べたこともない子どもに食べさせたかったのかもしれません。仕事がなく生活が苦しく、やむにやまれず盗んだのかもしれません。あるいは遊ぶ金ほしさの犯行かもしれませんし、窃盗団がやった仕業かもしれません。
源左は、この畑が自分のものとは、思っていなかったかもしれません。昔、土地が誰のものでもないころは、木になっている果物を勝手に食べても誰も文句はいわなかったでしょう。私有地が出来ても、悪さをする人がいなければ、罰則も刑法もいらなかったのでしょう。では、刑罰は、何のために決められるのでしょうか。悪いことをしないように、という忠告なのでしょうか。改心してもらいたいという意図があるのでしょうか。あるいは、懲らしめてやるという罰則なのでしょうか。
どうもこの世の中では、悲観論的な考えが優勢で、法律も刑罰も、そのようです。きっと悪いことが起こるであろうと、しらずしらず予測するのでしょう。他人の欠点を見つけることが好きな人は、沢山いるようです。健康診断でも、悪いところを見つける検査ばかりです。占いとか、手相なども、不安感をあたえるような話をすると、よく当たるといわれるようです。大体、悪いことは起こってほしくないので、悪い予言10個のうちひとつでもあたると、すごく当たっているように思えるのでしょう。悪いことが当たらなくても、文句を言う人はすくないでしょう。いい事を言って、それがひとつでも外れると、全く当たらないと文句を言われそうです。
他者が喜ぶことを自然と行ってしまう源左。他者がフィーリング グッドになれるように行動する。他者のことばかり気にすると、それがストレスになって、自分はうつ的になってしまうということも全くなく、こころ穏やかな源左。
どうもここに幸せのヒントがあるようです。自分に幸せをくれる青い鳥を探しに行くチルチルとミチルの話が、青い鳥症候群として、精神医学の本の中でも紹介されていますが、自分たちが青い鳥になって人に幸せを与えることができたら、というストーリーも考えてみたいものです。精神医学も出版物も、making people feel happy.
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