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星和書店
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日常診療における精神療法:10分間で何ができるか《電子書籍版》

メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服
《電子書籍版》

〈心を見わたす心〉と〈自他境界の感覚〉をはぐくむアプローチ

崔 炯仁(ちぇ ひょんいん)著

本体価格 2,300 円 + 税

MBT(メンタライゼーションに基づく治療)をやさしく学ぶ!
外傷的育ちとは、子どものころに身体的、心理的、性的な虐待を受けた体験、心や脳にダメージを与えるような養育体験とその影響を意味する。
本書では著者の豊富な臨床経験に基づき、いわゆる毒親、虐待などの外傷的育ちから生じる種々の心理・行動特徴について幅広く解説。適切なミラーリングと分離、メンタライズ力の成長を軸に、患者に安心感を与え心の成長を促す治療や支援方法を紹介する。 境界性パーソナリティ障害に対して効果が実証されていて、近年注目を集めているMBT(メンタライゼーションに基づく治療)を平易に学べるよう構成された入門書。



日常診療における精神療法:10分間で何ができるか《電子書籍版》

日常診療における精神療法:10分間で何ができるか
《電子書籍版》

限られた時間を有効に活かす精神療法的アプローチ

編集 中村敬

本体価格 2,200 円 + 税

一般的な精神科の外来診療においては、1人当たりの患者に費やす時間は、数分から長くても20分ほど、平均すると10分程度に過ぎないのではないだろうか。このような時間的制約がある中でも、優れた臨床家は患者の回復を促す技法を自然と身につけている。例えばそれは挨拶や態度であるかもしれないし、投薬に添える言葉かもしれない。本書では、主だった精神疾患ごとに、限られた時間でも行える精神療法的アプローチを示す。



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精神科治療学
本体価格  
2,880
円+税
月刊 精神科治療学 第31巻12号

特集:パルス波電気けいれん療法は正しく行われているか

難治例にも劇的効果をもたらし、精神科治療の最後の砦とも言われる電気けいれん療法(ECT)。うつ病をはじめ様々な精神疾患に広く施行され、その有用性は明らか。そのため、患者に安全かつ最も効果をもたらす適切な手技を習得することはすべての精神科医に必須といえる。本特集ではパルス波ECTを施行する際の適切なパラメータ設定方法、ECTパス、適切な麻酔手法、維持療法、奏効機序の最新研究、日本人の発作閾値と適正な刺激用量、術前評価と有害事象への対応、統合失調症・BPSD・慢性疼痛・線維筋痛症への適応、倫理面について取り上げた。ECTを適切に施行するために必読の特集。
JANコード:4910156071266

臨床精神薬理
本体価格   
2,900
円+税
月刊 臨床精神薬理 第20巻01号

特集: 治療継続性向上への新たな試み

統合失調症は慢性・再発性の疾患のため、治療継続が大変重要である。本特集では、展望にて病識が乏しい統合失調症患者に治療を継続させるための新たな技法について解説。そして治療教育、自覚的薬物体験、初回エピソード、持効性注射製剤、aripiprazole、clozapineなど様々な視点から治療継続性を向上させる試みについて考察した。
ISBN:978-4-7911-5231-5

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  今月のコラム

 
今月のコラム

インナーマッスルと記憶
西村 もゆ子

先日ふと思い立ち、ピラティスのグループレッスンに参加しました。普段はヨガを練習しているのですが、何か新しいことに挑戦してみたいと思ったのです。以来、すっかりピラティスに夢中になっています。きっかけは先生の何気ない一言、「インナーマッスルは古い記憶……」。

ピラティスとは、簡単に言うと体幹のインナーマッスル(深層筋)を強化して、全身の筋肉バランスや骨格を整えることを目指すエクササイズです。本来は先生と1対1で専用の器具を用いて行うそうですが、グループではマット上で行うエクササイズが中心。私が通う初心者クラスでは激しい動きはなく、基本姿勢を何度も確認しながら基本動作をみっちり繰り返し行う、どちらかというと地味な内容です。

初めて参加したときのこと。クラスの中盤、あおむけになり膝を立てた姿勢で、腕を伸ばしたままゆっくり上体を起こす動きをすることになりました。ところが、この動きだけはさっぱりできません。上体を持ち上げることがどうしてもできないのです。頭がとてつもなく重く感じられ、なぜか首や肩に強烈に力が入ってしまいます。このため首に痛みが走り、上体を起こすことがますます難しくなっていきます。しかしちらりと横の人を見ると、難なくこなしているようです。たまらず片手で後頭部を支えてズルをして、かろうじてその動きをやり過ごしてしまいました。

あまりのできなさにショックを受け、クラスが終わるや否や先生にかけより、このことについて質問をしました。すると逆にこう聞かれました。「むちうちか何か、首に何かケガなどをしたことがありますか?」。思い起こす限り、そのようなケガは記憶にありません。しかし一つ思い当たることがありました。バース・トラウマ(誕生時のトラウマ)です。

母親によれば、私は逆子だったため超がつく難産で、産まれたときは仮死状態でした。幸い蘇生できたものの、少し斜頸が残ってしまいました。このため母と祖母がしばらくの間、小児科医の指示どおりに私の首から肩にかけて懸命にマッサージをしてくれたそうです。おかげで私の首はまっすぐになりました。

この話をすると先生は次のように言ったのです。「インナーマッスルには古い記憶がつまっています。だから何かをしようとすると古い動きのパターンが出てきてしまうことがあります。言わばトラウマのようなもので、もうその出来事は昔のことなのに、インナーマッスルはその古い記憶のまま動いてしまうのです。でも、新しい記憶に書き換えてあげればいいのです。ピラティスはそれが可能です。新しい動き方、正しい動き方をからだに教えてあげるのです。もう大丈夫だから、もっと自由に動いても大丈夫だからって。」

首が自由に動くようになると、どれだけ楽に感じられることだろう!と、私はとてもうれしくなりました。また同時に、からだに刻み込まれている古い記憶による影響とその解放について、思いもよらぬ形で遭遇したことに驚きました。なぜならこのことはまさに、身体志向のトラウマ・ケア技法であるソマティック・エクスペリエンシングの基本的な考え方の一つだからです。

先般、訳者の一人として翻訳出版させていただいた『身体に閉じ込められたトラウマ ―ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア』では、トラウマ的な出来事や体験が心身に及ぼす影響とそのメカニズム、そうしたトラウマに対する処方箋としてのソマティック・エクスペリシングの理論が詳細に記されています。具体的な症例も豊富に紹介されており、中には私の首のようなケースもあります。また本書の中で著者ピーター・ラヴィーン博士は、温かく支えてくれる人のもとで、「タイトレーション、滴定」しながら、少しずつ安全にトラウマを処理することが重要だと述べています。

実はこのことは、基本的な動作を少しずつ無理なく安全に、指導者のサポートを受けながら行うピラティスとも共通しているように思います。さらに先生の話から、からだに残るトラウマの記憶に対して、もしかしたらピラティスでも何かできることがあるのかもしれない、と感じています。このまま練習を続けていくと、私のからだに、首に、どんなことが起こってくるのでしょう? そしてそれは私の心身のあり方にどのような変化をもたらすのでしょう? 想像すると少しワクワクします。こうしたわけで、今後も興味深く観察する眼と好奇心を持ちながら、練習を続けていきたいと思っています。

西村もゆ子(にしむら もゆこ)
臨床心理士,教育学修士,SETI認定Somatic Experiencing (R)プラクティショナー。
神戸大学経済学部卒業,トヨタ自動車(株)入社。名古屋大学教育学部3年次編入学・卒業,名古屋大学大学院教育発達科学研究科心理発達科学専攻博士(後期)課程単位取得退学。三菱自動車工業(株)岡崎健康管理室などにて勤務の後,渡欧。2015年末帰国。日英仏語で臨床活動を行う。
訳書『身体に閉じ込められたトラウマ』(共訳,星和書店刊)
連載 zurichからの便り
 第1回
出会いと再会、言葉にすることへの躊躇と自重
林 公輔

このたび、星和書店より私の留学体験についてエッセイを書く機会をいただきました。ずいぶん前にこのお話をいただいたのですが、実際に書き始めるまでに、留学してから半年以上もの月日が必要でした。何を書いたらいいのかわからないというのが当初の実感でしたが、同時にやはり、自分自身の体験を書くことに躊躇していたのだと思います。そのような私の躊躇を、考古学者である相沢忠洋の自叙伝『「岩宿」の発見』1)を読みながら、改めて自覚しました。
 自伝の中で彼は、幼少時代の傷つきや流した泪についてまで、静かに水が流れていくような、肩肘張らない文体で淡々と記述しています。自らが歩んだ考古学上の発見過程を語るためには、彼自身の生い立ちや傷つきを、脇に置いたまま通り過ぎることができなかったのだろうと思います。なぜなら、その傷つきこそが、彼の考古学への興味や偉大な発見という自己実現のプロセスと、分かち難く結びついていたからです。家族と離れ離れになった相沢は、「父母兄弟への思慕をいだきながらも、それが求められなかった私には、遠い過去の人たちの生活の場にそれを求め、心をいやしてきたにほかならなかった」ということに気がついています。「孤独だった少年の日から心に求めてきた一家団らんへの思慕」を彼は隠そうとはしません。失われてしまった彼自身の「一家団欒」と、石器の向こうに透けて見える古代の人々の「一家団欒」とが、悲しみや憧れといった感情を媒介にして、彼の中で分かち難く結びついていたのです。最後に相沢は、一家団欒を共にすることの叶わなかった父母の死について語り、消息不明の妹に想いを馳せ、そして心の中にある、捨て去ることのできない「人間嫌悪の情」に触れて、この本を終えています。
 私はここチューリッヒで、ユング派分析家の資格を得るためのトレーニングを受けています。その過程で最も重要なプロセスが、教育分析と呼ばれるものです。それは、私の体験では、自己治癒のためのプロセスにほかなりません。ですから、私の留学体験をエッセイとして書き進めるということは、とりもなおさず、私自身の傷つきを、意識的・無意識的に、その行間ににじませる行為なのではないか、という躊躇が、筆をとることを鈍らせた原因ではないかと思うのです。そして、その躊躇を言葉にできた今、少しずつ、私なりの体験を言葉に置き換えていけるような気がしています。

ユング心理学と教育分析

ユング心理学の概略をご紹介したいと考えましたが、対象としている範囲がとても広いため(例えば、夢、おとぎ話、宗教など)、ひとまず教育分析についてお話しするところから始めたいと思います。
 先ほども少し触れましたが、トレーニングの一環として教育分析というものを受けます。私は週に2回、1回50分の分析を受けています。“教育”分析とはいうものの、実際には自分自身がクライアントとして、分析家に心理療法を受けることにほかなりません。私自身の体験から言えば、無意識がもつ力や可能性に開かれた態度を身につけることが、教育分析を受ける意味です。そしてそれは、ユング心理学が目指しているものでもあると思います。
 分析空間に身を置きながらいつも感じることは、分析家の自由な態度です。ここで突然ですが、『ワンピース』という漫画をご存知でしょうか。主人公のルフィーは“海賊王”を目指していますが、“海賊王”とは、海で一番自由な人のことだと定義しています。それと同じように、分析家の理想的なあり方とは、分析空間という限られた場(時間や場所など、さまざまな制限があります)において、クライアントに対しても、そして彼/彼女自身の意識や無意識に対しても自由な存在なのだろうと思います。私の分析家は、おそらく私よりもずっと、彼自身の無意識の働きを信用しています。私の話を聞きながら、こころに浮かんだことを話してくれたり、本を手にとってそこに描かれている絵を見せてくれたりしますが、それらがちゃんと私の気持ちに寄り添ってくれていることを感じます。そのような開かれた態度を、私も身につけたいと思っています。そして、無意識に対して自由で開かれた態度を身につけることと、現実社会において他者に対して寛容になること、他者から自由になることとは、パラレルに生じる過程なのだろうと想像しています。

ユング心理学との出会い

教育分析以外のトレーニングとしては、研究所でのレクチャーやセミナーがありますし、試験(口頭試問です)もあります。ちょうど今日、このエッセイを書いている日に、私は中間試験の最初の科目(全部で8科目あります)を受けました。分析家資格を取得するためにはいくつかクリアしなくてはならない段階がありますが、中間試験はそのひとつになります。
 受験した科目は「ユング心理学の基礎」に関する50分間の口頭試問で、二人の分析家が試験官でした。試験官はリストから自分で選ぶことができますし、試験前に打ち合わせをして、課題についての確認や質問もできます。同じ科目でも、試験官によって試験内容は異なります。ただし、自分の分析家を試験官として選ぶことはできません。私は留学前にも日本でユング心理学のトレーニングを受けていましたので、試験内容そのものよりも、英語の方が問題でした。ユング心理学を勉強しているのか英語を勉強しているのか、ときどき分からなくなります。 
 なんとか試験を終え、少し廊下で待った後、合格である旨が申し渡されました。その時、試験官の一人が、「この本の作者を知っていますか?」と言って私に一冊の本を手渡しました。英訳された遠藤周作の『沈黙』2)でした。そしてこの本こそ、私がユング心理学に興味を持つようになった入り口とも言える本だったのです。
 今からもう20年ほど前になるでしょうか、『沈黙』をきっかけに遠藤周作の小説が好きになり、彼の作品ばかり読んでいた時期がありました。そして彼の著作を通じて、私はユング心理学の存在を知ったのです。どうやら日本におけるユング心理学の第一人者は河合隼雄(ユングのことをユング“先生”と呼ばないのと同じように、私にとっては“河合隼雄”なのです)という人らしいと知り、興味を惹かれて著作を買い求めました。そこには、スイスにはユング研究所というところがあり、入学試験(3人の分析家との面接試験)は一生に一度しか受けられない、などということが書いてあり、いつかそんなところに行けたらいいなと、漠然とではありましたが、そう思ったことを今でもはっきり覚えています。
 いろいろなことがありましたが、私はチューリッヒに来ることができました。そして、初めて受けたテストの試験官から手渡された本が、遠藤周作の『沈黙』だったのです。ただの偶然でしょうか。はい、ただの偶然かもしれません、もちろん。でも私は、試験を終えて部屋を出ると、なんとも言えない不思議な気持ちになりました。
 そういえば、私は一度だけ、河合隼雄の講演会に出る機会を得ることができましたが、その時のタイトルが「偶然と必然」でした。20年以上も前のある日、たまたま『沈黙』を手にしたことは、偶然なのか必然なのか。偶然と考えてしまったほうが楽な問いだろうと思います。合理的な価値基準に従えば、当然そうなります、ハイ。でも、『沈黙』との出会いをきっかけとしてユング心理学や河合隼雄を知り、その20年後にチューリッヒでトレーニングを受けることになり、最初のテストで試験官の持っていた本が『沈黙』だったのです。私は、それをただの“偶然”として片づけてしまうことができませんでした。少しだけですが、これまでやってきたことを(誰か、もしくは何かから)認めてもらったような気がしたのです。「そんなのちょっと胡散臭いな」と心の片隅で思いながら、でもそこに意味を感じている自分のこころの動きを大切にしたいと思います。それが、ユング心理学を学び、分析家を目指している私の立場です。
 私が感じている“意味のようなもの”を、きちんと言葉で言い表すことができませんので、“沈黙”して今日のところは終わりたいと思います(おやじギャグです、スミマセン)。でもきっと、その“意味のようなもの”は、“沈黙”という形をとって私の前に現れたのだろうと思うのです。ですから私は、“沈黙”の中に、無理に“言葉”を探さない方がいいのだろうと思っています。


1)相沢忠洋 『「岩宿」の発見』 講談社文庫.
2)遠藤周作 『沈黙』 新潮文庫.

林 公輔(はやし こうすけ)
精神科医。医学博士。福井医科大学(現福井大学)医学部卒。慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室、特定医療法人群馬会群馬病院等を経て、2016年3月より、International School of Analytical Psychology Zurichに留学中。
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