ロッカーの中のお化け
こころの診療科 きたむら醫院 北村俊則
「こんなクリニックに二度と来るか!」と心の中で叫んで、早苗さんは足早に通りに出てきました。あんな言葉を聴かされるために1時間も待たされたのかと思うと、怒りはさらに強まります。町には秋の小雨が降っていますが、7歳になるひとり息子、薫君の手を引く早苗さんの気持ちを静めることはできません。
薫君は早苗さんの一人息子です。小学校2年生になってから薫君が教室で落ち着かなくなったのです。先日は担任の先生から早苗さんが呼び出されました。「薫君は最近、授業中に立ち上がり、他の生徒の机までいったりします。静かに座っているかと思うと、窓の外を見ているのです。私の話も上の空の様子です。たずねると『雲を見ていた』と答える始末です。体育の授業でも、例えばプールではこちらが指示する前にすぐに飛び込みます。最後には『授業がつまらない』と言い出しましてね……」という担任の表情は、「親の育て方に問題があるのではないですか」と言わぬばかりです。そして、どこか心療内科か児童精神科でみてもらいなさいという指導(指示? 命令?)でした。
薫君は自宅では静かです。本が好きな少年です。科学物も好きですが、最近は少年向け文学全集を読み漁っています。友人は多くはいません。でも公団の隣の棟の健ちゃんとは仲良しです。健ちゃんのお父さんが薫君を気に入っていて、時々二人を防波堤へ釣りに連れて行ってくれたりします。
仕事の帰りの遅い夫はほとんど相談相手になりません。そこで、ネットで調べて、かわいい感じのホームページがアップされていた駅前クリニックに予約を取って受診したのです。お洒落な待合室にいるときは静かだった薫君は、診察室に入り、パソコンの前に座っている男性の精神科医の前の椅子に座ると、急に落ち着かなくなりました。早苗さんが事情を話し始めると、精神科医は「あぁ、ADHDですね」と言い放ちました。精神科医が話しかけようとすると、薫君は部屋の角にあった更衣ロッカーを開けて、あっという間にその中に入り込みます。あわてた早苗さんが薫君を引きずり出すと、薫君はちょっとバツの悪そうな様子を見せて、「ロッカーの中にガイコツがいた!」といいます。
気分を害したのか、精神科医は「今日は調子が悪いようですね。無理に面接する必要もないでしょう。再来週また来てください。ご存知と思いますが、ADHDはかなり遺伝で規定されています。虐待も一因かもしれませんね。ですが、お薬で治療できます。1年ほど服用すれば落ち着きます」と言って、パソコンから処方箋を印字して、早苗さんに渡します。「あのっ……」と言う早苗さんに、精神科医は帰りのドアを開けてくれました。
どうしたらよいか途方にくれた早苗さんは、週末、駅ビルの本屋に立ち寄りました。育児書のコーナーにいったら、かわいい子どもたちのイラストのついている新刊本が積まれていました。手にとって数頁を読んでみました。アメリカの本なのに、出てくる事例は薫君にそっくりです。早速購入し、読んでみると止まらなくなりました。夫の出張もあったので、土曜日一晩で読み終えました。ADHDの治療の第一は「親が子どもと楽しく遊ぶこと」でした。日曜日の朝、「薫、今日は雨も晴れたし、ママと一緒にどこか行こうか?」と言うと、薫君は「科学博物館が良い!」と即答しました。その日の夜、早苗さんは「こんなに楽しい時間を薫と持ったのはいつ以来かしら」とひとりごとをいいながら床につきました。となりから薫君の静かな寝息の聞こえる夜でした。
*****早苗さんの読んだ本は、キャロライン・ウェブスター=ストラットン(著)、北村俊則(監訳)、大橋優紀子、竹形みずき、土谷朋子、松長麻美(訳)『すばらしい子どもたち ―成功する育児プログラム』星和書店*****
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