|

つらいことはみな、森の風が連れ去ってくれる
紀成道
「つらいことはみな、森の風が連れ去ってくれる」。
どこかの詩を引用しているわけではありません。精神科病院に入院していたある患者の方の声です。
写真家である私は、数年前に北海道苫小牧市の社会医療法人こぶし「植苗病院」を囲む森を訪れました。当時、週に一度開いていた森林療法に関心があり、見学を経て撮影取材をさせていただきました。
病院は小高い丘の上にあり、周りの森がほどよく整備されて散策できるようになっています。歩き回ることで適度に疲れ、夜にぐっすり眠れるため生活のリズムが整います。草花の芽を探したり、大きなフキの葉を刈り取って遊んだり、木の実を拾って小箱に収めたり、雪のなか焚き火で暖をとったり。レクリエーションを通じて四季の移り変わりを楽しみます。自然に向き合いつつも、参加する当事者同士や医療スタッフ、外部のボランティアとコミュニケーションを深めることで、社会復帰への足掛かりとなるわけです。
私はこの病院を訪れるまで、精神科の患者の方と直に接することがなく、どう振る舞うべきか不安になっていました。しかし、いざ森に足を踏み入れると、患者とスタッフの見分けが本当につかず驚き、ただただ、立場から解放されて人と人との結びつきに純化されるのを経験しました。いわば森という場が、人間という関係性を前提とした生き物から動物のヒトに還元する力を持っているように感じたのです。霊長類であるヒトは、森の居心地がよいのが当たり前なのかもしれません。仕事など立場の違いで苦い経験を味わうこともある我々にとって、日本が持つ最大の資源・森林に「つらいことを連れ去ってくれる風」が流れているのはとても嬉しく思えます。
私自身、この撮影の中で当事者への理解が深まりました。現代では、インターネットの普及によって、多くの知識が共有されてはいるものの、知らないことさえ知っていると勘違いしていることがなんと多いことか。私も精神医療の現場が重くて暗いものだという固定観念を抱いてしまっていたことに気づかされました。
日本でも精神医療の地域化が叫ばれてしばらく経ちますが、当事者と地域に住む健常者の相互理解が生まれるよう、大きな自然が出会いの場として機能することを期待しています。私の知っているいくつかの病院では住宅地に囲まれつつも、適度な大きさの林が備えられているところがあり、両者が自然に交流できる環境となって、地方に限らず都会でも森林療法が浸透する可能性を感じています。
一方で森林療法にも課題はいくつかあります。当然のことながら、すべての方に効果が望めるわけではなく、例えば、虫が苦手な方は自然の中でリラックスがしにくいのです。こうした方を無理に森に引っ張っていく必要もありませんが、自然に親しむにもそれなりの知識や技術があると「外に出てみようかな」という気にもなるものです。そこでこうしたプログラムを組めるコーディネーターが必要になるわけですが、医療従事者が必ずしも自然に詳しいとも限らないわけですし、外部の人材が近くにいるとも限りません。逆にいうと、周りに詳しい人材がいたとしても、その方に精神医療や当事者への理解がないことには、プログラムは組めません。
そして、森も生き物なので定期的な手入れが必要となります。暗く鬱蒼とした森では、獣が突然現れる不安がつきまといます。森のどこにいても病院や住宅地など帰る場所の見える安心感がある、人の手が入った明るい森であるのが望ましいとされています。しかし森の整備は力仕事で人手が必要とされます。患者が手入れに参加することで、森林療法への主体性が生まれる効用も想像できますが、この行為自体を患者や関係者が労働と捉えられてしまうのを懸念して、病院側が組み込めないのが実情です。
いくつか取材した中で、課題を乗り越えうまく継続されているのは、ソフト面とハード面の両立を欠かしていない場所でした。かなり属人的とも言えます。となりますと、エビデンスが得られにくく、一般体系化しにくいことにつながってしまいます。これが結局、最大の課題なのかもしれません。
私ですら現場を見ただけでも、院内にいる時と、森で遊んでいる時とで、表情の良さや、コミュニケーションのスムーズさに違いを感じ取ることができました。投薬の量が減ったという患者もいました。ある患者は、「病院のベッドで寝ていると天井ばかりでいやになってくる」と森林療法の時間に落ち葉の上に大の字に寝転がって気分転換をする方がいたほどです。
実は現在、取材させていただいた病院では森林療法そのものは実施されてはいません。しかし、裏庭を活用した農耕活動などで自然に親しんでいますし、長期入院患者の方々が地域に戻って生活できるような別のプログラムに力を入れています。
そこで当時の森林療法の様子を『Touch the forest, touched by the forest.』(赤々舎刊)というタイトルで写真集にまとめました。表紙には退院した方と拾った本物の木の葉を入れ込んでいます。また、写真をレーザー光線で焼き付けた木の板で小規模な写真展を行えるようにもしています。自然の包容力、人間の可能性を感じ取っていただける作品だと自負しております。もしご関心ありましたら、お声かけいただけると幸いです。
紀成道(きの せいどう)
京都大学工学部物理工学科卒業。大学院在学中に、カメラマンや里山で農業を営む人々との出会いがきっかけとなり、現在写真家として活動している。「Touch the forest, touched by the forest.」が2016年の写真コンペ「フォト・プレミオ」で年度賞大賞受賞。2017年に上梓した写真集が米国のコンペ「Lucie Photo Book Prize」でファイナリストにノミネートされた。http://kinoseido.jp/work/
|
|