「本当に分かっている」ことについて
〜メンタライゼーションの視点から〜
崔 炯仁
ある女性はもう長年ご両親がいる天国に呼んでもらえる日を心待ちに、ひとりきりで生き続けています。彼女の診察はもう9年以上、ほぼ毎週30分以上私なりに精一杯相談に乗っているのですが、彼女は診察の最後に必ず、「先生は私がどれだけ苦しいか、本当に分かってくれているのでしょうか?」という質問をのこして帰ります。
「本当に分かっていますか?」精神科医にとってこれほど難しい問いもそうありません。問いを発する本人にとっても、主治医が本当に分かってくれているかどうかは重大な問題でしょう。しかし、どのようにすれば「本当に分かっている」ことになるのでしょう。これまで私が投げかけられたものから振り返ってみることにしました。
(1) ウソ・分かっているフリではなく理解してもらえること。分かってくれると信じられる状態――Truly (faithfully) understood
この意味で訊く人は、「目の前の人が信じるに値するかどうか」を気にせずにはいられないのかもしれません。外傷的育ちの人に多いように思います。「もしかしてこの人も私を裏切り不正利用するのではないか」、「裏では私のことをスタッフと笑っているのではないか」という疑念や、「自分はあんな親のもとに生まれたから得られなかっただけで、この世にはもっと完全な信頼が存在するのではないか」という『100%幻想』などが、この質問の背景に込められているように思います。身近に、十分に信頼している人がいる人からはこのような質問をあまり聞くことがありません。メンタライゼーションの視点からは、本人から見た主治医の言葉や態度とその心理が乖離している「ごっこモード」なのではないかという疑念が拭えない状態ということができます。
(2) 本人の体験をそのまま、ズレなく具体的に理解してもらえること――Really (concretely) understood
母親との分離性を獲得していない幼児は時に「ママ、ボクお腹すいてる?」と尋ねます。そのまま大人になった人は、親に対して「(オレが体験するように)分かってくれるのが親だろうが!」と責めます。メンタライゼーションの視点では、これを「心的等価モード」の一つと呼ぶことができます。自分の主観的な苦痛が実体のある現実であり、親にも共体験が可能だと認識していることの表れとも考えられます。主治医にこの理解を要求する人は多くありませんが、医療者のプライバシーに踏み込むような領界侵犯行為などの奥にはそのような欲求が含まれている場合があります。ちなみに主治医の方が、この質問の真意をはぐらかすための方便としてこのモードを使うこともあります。「あなたと私は別の人格なんだから、そんな完全には分かりませんよね」と。当事者はそういう意図で訊いていなくても、そう答えれば「そりゃそうですけど」とその場は丸く収まってくれそうな気がします。
(3) 辛いということを承認してもらえること——Validated
得体のしれない苦痛・痛みに診断という「名前」がつくこと、例えば精神科医から「ずっとお辛かったですね。これはうつ病の症状ですよ」という説明を受けた際、病気と宣告されたショックがある一方、「ほっとした」という方も多くいます。この苦しみが幻でなく、「本物だ」と承認してもらえることです。しかしうまく承認できない辛さもたくさんあります。拒食症の入院治療を終えて病的やせを脱したけれども、生きづらさは何も変わらず、むしろ迫ってくるようになった。漠然とした孤立無援感、止まらない自己攻撃の痛み。せめて主治医には「辛い」ということを分かって認めてほしいという思いは、切実なものです。主治医も辛そうだと思いながら10分程度の診察では解決の糸口も見つからず、とりあえずお薬を増やそう、と提案することで承認していることを示そうとし、そのうちに大量の処方になってしまうということもままあるのです。処方する医師も、それで「分かってもらえた」と一安心する本人も、メンタライゼーションの視点では「目的論的モード」と呼ぶことができます。
私がメンタライゼーション理論に出会って最も新鮮に感じたのは、人の、自分の心を見わたす力の誕生と成長が、養育者によるメンタライジングから始まるという点です。養育者が心にその子の「心のジオラマ」を持ち、それを見わたし(reflecting)、今起こっていることを理解してその子にほどよく映し返して(mirroring)いくことで、子どもは心を見わたす心と、「分かる・考える・対処する」行動主体自己を育んでいくのです。この映し返しは、その子の心をあまり言い当て過ぎず適度に実情に伴っていること(随伴性、contingent)、その痛みがその子固有のものであることを示すこと(有標性、marked)が大切です。
境界性パーソナリティ障害など外傷的育ちによる生きづらさの治療であるメンタライゼーションに基づく治療(MBT)は、この「メンタライジングを用いてメンタライズ力を育てる」作用を使っています。P. Fonagyが「すべての心理療法の効果はメンタライジングを促進することによる面がある」と述べているように、この作用は様々な流派の治療法、そして支援、教育にも普遍的な作用と言えます。治療では、質問や一人称で考えを示す形を用いて、完全に言い当てようとせず、クライアントのメンタライジングを引き出し、感情を調整する力を育てていきます。この治療は精神分析などと同様、探索的な精神療法に数えられるもので、いわゆる支持的精神療法ではありません。しかし本人にとって、治療者・支援者が自分の心のジオラマを「持ってくれている」「持とうとしてくれている」ことはそれだけで十分に支持的で安心感を与えるものではないかと思うのです。養育者が子どもに行っている作業に基づく、メンタライジングによる想像力の光を当てるアプローチは、「育てる」と「安心する」の2つの作用があるということです。私は、このやり取りの中に人と人の間の現実上最高の「分かる」があるのではないかと思うようになりました。
すなわち第4の「本当に分かっている」を、以下のように表したいと思います。
(4) 本人の心のジオラマを持ってくれている、それに照らして今心の中で何か起こっているか、想像力の光を当ててくれていること――Mentalized
ただ、これを最高の「分かる」だと感じられるには、本人自身が100%幻想を手放している必要があります。冒頭の問いの答えは、分かってもらえる対象をただ探し求めるのではなく、受け手側にも主体的な成長がなければ見つからないということかもしれません。
さて、初めにご紹介した女性はある年末、うつ病の状態になり70年を超える人生で初めて病院で年を越すことになりました。「自分はうつ病ではなく不治の認知症にかかっている」と信じ込み、自分と亡きご両親が遺した「家」の終い支度という大仕事が進むことも退くこともできず動くことができなくなりました。私はこれまでの経験から、彼女に「認知症ではない」とか、「必ず治る」ということをことさらに納得してもらおうとせずに、休める環境だけを作るよう努めました。苦しい数か月が過ぎ、彼女のうつはようやく改善の兆しを見せ始めました。診察で彼女は、症状改善への感謝よりも、「先生は、私がうつで、必ず治るとずっと信じていてくださった」と感謝してくださいました。私は相変わらず彼女が抱える孤独を「そのまま」分かってはいないままですが、精神科医として彼女の心のジオラマを持とうとしつづけることが彼女の、「本当に分かってもらえた」安心感につながったように感じた瞬間でした。
※ 本文で使用している「ごっこモード」など心的現実のモード、「100%幻想」「心のジオラマ」など用語についてのより詳しい内容については、拙著、『メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服――〈心を見わたす心〉と〈自他境界の感覚〉をはぐくむアプローチ』をご参照いただければ大変光栄です。
崔炯仁(ちぇ ひょんいん)
京都市生まれ。1995年,京都府立医科大学医学部卒業。
2004〜2010年 京都府立医科大学大学院 精神機能病態学 助教。同大学附属病院精神科病棟医長。
2009年 ロンドン大学St. George校摂食障害部門留学。
2010〜2013年 京都府精神保健福祉総合センター主任医師・京都府立医科大学大学院併任講師。
2013年〜現在 いわくら病院。現在急性期治療病棟担当・診療科長,医学博士。
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