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星和書店
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ADHDタイプの大人のための時間管理ワークブック 3月初旬発売予定

ADHDタイプの大人のための
時間管理ワークブック

なぜか「間に合わない」「時間に遅れる」「約束を忘れる」と悩んでいませんか

中島美鈴,稲田尚子 著

A5判 並製 176頁
ISBN978-4-7911-0947-0〔2017〕
本体価格 1,800 円 + 税

いつも遅刻、片づけられない、仕事が山積みでパニックになる、と悩んでいませんか。日常によくある困った場面別に学べるので、改善が早い! ひとりでも、グループセラピーでも使用できるように構成されています。


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リラクセーション反応 増刷出来

リラクセーション反応

H.ベンソン著 中尾睦宏、熊野宏昭、久保木富房訳

四六判 228頁
ISBN978-4-7911-0442-0〔2001〕
本体価格 1,800 円 + 税

ストレスを軽減するための効果的な心身医学的アプローチについて解説。出版と同時にアメリカでベストセラーとなり、今まで何百万人もの人たちがこの方法を実践している。ストレスの有害作用を治療するハーバード大学医学部附属病院で発見された1日2回10分か20分の練習方法。現代生活の緊張を解くのにきわめて役立つ方法を解説した本書は医療従事者などの専門家だけでなく、あらゆる人たちに有用である。


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精神科治療学
本体価格  
2,880
円+税
月刊 精神科治療学 第32巻2号

特集:臓器移植をめぐるリエゾン精神医学の臨床

臓器移植における精神医学的関与の重要性は増すばかりである。臓器移植法施行から20年、レシピエントへの心理支援はもとより、ドナー家族への心理支援や、さらには精神科医が「第三者」の立場で生体ドナーの意思確認に関与するなど、重要な役割を担う。精神疾患を有する人の生体臓器移植にも密接に関わる。また移植件数の増加に伴い、一般精神科医療機関が移植施設との地域連携という形で関わる機会も増えている。本特集では臓器移植をめぐる精神医学の役割について、レシピエントへの支援、ドナーへの支援、移植医療と精神科医療との協働という観点から取り上げた。拡大する精神医学の新しい領域である「臓器移植精神医学」を知るうえで必読の特集。
JANコード:4910156070276

臨床精神薬理
本体価格   
2,900
円+税
月刊 臨床精神薬理 第20巻03号

特集: うつ病治療における「真のリカバリー」を考える

リカバリーとは、症状の減少や緩和のみならず、精神疾患を持つ当事者が希望を抱き主体的に生活を送ること等も含む多様な概念である。本特集では、うつ病治療における「真のリカバリー」について、当事者のリカバリーや抗うつ薬の効果・副作用に対する気持ちを紹介し、治療者の心構え、治療を始める際に当事者に伝えるべきこと、認知・社会機能に対する薬物療法の効果、就労を考える際に期待される薬物療法、難治例に対する薬物療法と精神療法、Shared Decision Makingの可能性など、多方面から考察した。
ISBN:978-4-7911-5233-9

精神科臨床サービス
本体価格   
2,200 円+税
季刊 精神科臨床サービス 第17巻1号

特集:みんなが元気になれる家族支援 I

家族を支援して、家族も当事者も元気にする──。 精神保健医療福祉に携わる多くの専門家が、家族支援の必要性を実感し、現場において実践している。しかし、支援を受けているはずの家族サイドから見ると、現状の支援ではまだまだ不足しているという。本特集では、第一線に立つエキスパートが、望ましい家族支援のあり方について、わかりやすく解説する。家族支援の基本的な考え方に始まり、時代の流れによる家族のあり方や取り巻く環境の変化、いま求められている支援について記した当事者の声、統合失調症やうつ病などの疾患や状態の特性に応じた家族支援、さらには親に向けた支援についても紹介。家族支援に悩むすべての人に向けた役立つ情報が満載。
ISBN:978-4-7911-7165-1

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今月のコラム

「本当に分かっている」ことについて
〜メンタライゼーションの視点から〜
崔 炯仁

ある女性はもう長年ご両親がいる天国に呼んでもらえる日を心待ちに、ひとりきりで生き続けています。彼女の診察はもう9年以上、ほぼ毎週30分以上私なりに精一杯相談に乗っているのですが、彼女は診察の最後に必ず、「先生は私がどれだけ苦しいか、本当に分かってくれているのでしょうか?」という質問をのこして帰ります。
 「本当に分かっていますか?」精神科医にとってこれほど難しい問いもそうありません。問いを発する本人にとっても、主治医が本当に分かってくれているかどうかは重大な問題でしょう。しかし、どのようにすれば「本当に分かっている」ことになるのでしょう。これまで私が投げかけられたものから振り返ってみることにしました。

(1) ウソ・分かっているフリではなく理解してもらえること。分かってくれると信じられる状態――Truly (faithfully) understood
 この意味で訊く人は、「目の前の人が信じるに値するかどうか」を気にせずにはいられないのかもしれません。外傷的育ちの人に多いように思います。「もしかしてこの人も私を裏切り不正利用するのではないか」、「裏では私のことをスタッフと笑っているのではないか」という疑念や、「自分はあんな親のもとに生まれたから得られなかっただけで、この世にはもっと完全な信頼が存在するのではないか」という『100%幻想』などが、この質問の背景に込められているように思います。身近に、十分に信頼している人がいる人からはこのような質問をあまり聞くことがありません。メンタライゼーションの視点からは、本人から見た主治医の言葉や態度とその心理が乖離している「ごっこモード」なのではないかという疑念が拭えない状態ということができます。

(2) 本人の体験をそのまま、ズレなく具体的に理解してもらえること――Really (concretely) understood
 母親との分離性を獲得していない幼児は時に「ママ、ボクお腹すいてる?」と尋ねます。そのまま大人になった人は、親に対して「(オレが体験するように)分かってくれるのが親だろうが!」と責めます。メンタライゼーションの視点では、これを「心的等価モード」の一つと呼ぶことができます。自分の主観的な苦痛が実体のある現実であり、親にも共体験が可能だと認識していることの表れとも考えられます。主治医にこの理解を要求する人は多くありませんが、医療者のプライバシーに踏み込むような領界侵犯行為などの奥にはそのような欲求が含まれている場合があります。ちなみに主治医の方が、この質問の真意をはぐらかすための方便としてこのモードを使うこともあります。「あなたと私は別の人格なんだから、そんな完全には分かりませんよね」と。当事者はそういう意図で訊いていなくても、そう答えれば「そりゃそうですけど」とその場は丸く収まってくれそうな気がします。

(3) 辛いということを承認してもらえること——Validated
 得体のしれない苦痛・痛みに診断という「名前」がつくこと、例えば精神科医から「ずっとお辛かったですね。これはうつ病の症状ですよ」という説明を受けた際、病気と宣告されたショックがある一方、「ほっとした」という方も多くいます。この苦しみが幻でなく、「本物だ」と承認してもらえることです。しかしうまく承認できない辛さもたくさんあります。拒食症の入院治療を終えて病的やせを脱したけれども、生きづらさは何も変わらず、むしろ迫ってくるようになった。漠然とした孤立無援感、止まらない自己攻撃の痛み。せめて主治医には「辛い」ということを分かって認めてほしいという思いは、切実なものです。主治医も辛そうだと思いながら10分程度の診察では解決の糸口も見つからず、とりあえずお薬を増やそう、と提案することで承認していることを示そうとし、そのうちに大量の処方になってしまうということもままあるのです。処方する医師も、それで「分かってもらえた」と一安心する本人も、メンタライゼーションの視点では「目的論的モード」と呼ぶことができます。
 私がメンタライゼーション理論に出会って最も新鮮に感じたのは、人の、自分の心を見わたす力の誕生と成長が、養育者によるメンタライジングから始まるという点です。養育者が心にその子の「心のジオラマ」を持ち、それを見わたし(reflecting)、今起こっていることを理解してその子にほどよく映し返して(mirroring)いくことで、子どもは心を見わたす心と、「分かる・考える・対処する」行動主体自己を育んでいくのです。この映し返しは、その子の心をあまり言い当て過ぎず適度に実情に伴っていること(随伴性、contingent)、その痛みがその子固有のものであることを示すこと(有標性、marked)が大切です。
 境界性パーソナリティ障害など外傷的育ちによる生きづらさの治療であるメンタライゼーションに基づく治療(MBT)は、この「メンタライジングを用いてメンタライズ力を育てる」作用を使っています。P. Fonagyが「すべての心理療法の効果はメンタライジングを促進することによる面がある」と述べているように、この作用は様々な流派の治療法、そして支援、教育にも普遍的な作用と言えます。治療では、質問や一人称で考えを示す形を用いて、完全に言い当てようとせず、クライアントのメンタライジングを引き出し、感情を調整する力を育てていきます。この治療は精神分析などと同様、探索的な精神療法に数えられるもので、いわゆる支持的精神療法ではありません。しかし本人にとって、治療者・支援者が自分の心のジオラマを「持ってくれている」「持とうとしてくれている」ことはそれだけで十分に支持的で安心感を与えるものではないかと思うのです。養育者が子どもに行っている作業に基づく、メンタライジングによる想像力の光を当てるアプローチは、「育てる」と「安心する」の2つの作用があるということです。私は、このやり取りの中に人と人の間の現実上最高の「分かる」があるのではないかと思うようになりました。
 すなわち第4の「本当に分かっている」を、以下のように表したいと思います。

(4) 本人の心のジオラマを持ってくれている、それに照らして今心の中で何か起こっているか、想像力の光を当ててくれていること――Mentalized
 ただ、これを最高の「分かる」だと感じられるには、本人自身が100%幻想を手放している必要があります。冒頭の問いの答えは、分かってもらえる対象をただ探し求めるのではなく、受け手側にも主体的な成長がなければ見つからないということかもしれません。
 さて、初めにご紹介した女性はある年末、うつ病の状態になり70年を超える人生で初めて病院で年を越すことになりました。「自分はうつ病ではなく不治の認知症にかかっている」と信じ込み、自分と亡きご両親が遺した「家」の終い支度という大仕事が進むことも退くこともできず動くことができなくなりました。私はこれまでの経験から、彼女に「認知症ではない」とか、「必ず治る」ということをことさらに納得してもらおうとせずに、休める環境だけを作るよう努めました。苦しい数か月が過ぎ、彼女のうつはようやく改善の兆しを見せ始めました。診察で彼女は、症状改善への感謝よりも、「先生は、私がうつで、必ず治るとずっと信じていてくださった」と感謝してくださいました。私は相変わらず彼女が抱える孤独を「そのまま」分かってはいないままですが、精神科医として彼女の心のジオラマを持とうとしつづけることが彼女の、「本当に分かってもらえた」安心感につながったように感じた瞬間でした。


※ 本文で使用している「ごっこモード」など心的現実のモード、「100%幻想」「心のジオラマ」など用語についてのより詳しい内容については、拙著、『メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服――〈心を見わたす心〉と〈自他境界の感覚〉をはぐくむアプローチ』をご参照いただければ大変光栄です。

 
崔炯仁(ちぇ ひょんいん)
京都市生まれ。1995年,京都府立医科大学医学部卒業。
2004〜2010年 京都府立医科大学大学院 精神機能病態学 助教。同大学附属病院精神科病棟医長。
2009年 ロンドン大学St. George校摂食障害部門留学。
2010〜2013年 京都府精神保健福祉総合センター主任医師・京都府立医科大学大学院併任講師。
2013年〜現在 いわくら病院。現在急性期治療病棟担当・診療科長,医学博士。
連載 zurichからの便り
 第3回
冬の後にしか春は訪れないということ
林 公輔

2月に入り、チューリッヒの寒さもだいぶ和らいできました。青空が広がる日には、公園で陽の光を楽しんでいる人たちの姿を見かけます。夜が明ける時間も早くなりました。私はここチューリッヒで、春を迎えようとしています。

ベルリンへ

先日、夢に関するセミナー参加のため、ドイツのベルリンを訪れました。チューリッヒからは飛行機で約1時間半の距離で、時差はありません。物価はチューリッヒより安く、ビールも美味しいです。
 1日余裕がありましたので、「博物館島」に行ってきました。博物館や美術館が集まっていることからその名で呼ばれ、ユネスコの世界遺産にも登録されています。私は駆け足で3箇所まわりましたが、平日のためか人もそれほど多くなく、自分のペースで楽しむことができました。
 そのなかの1つの美術館に、それほど良いとは思わないのにどうしても気になる絵がありました。Casper David Friedrichという画家が描いたその絵には、僧侶(私には女性のように見えます)の後ろ姿が小さく描かれ、その人物の前には、大半を雲に覆われた暗い空と、おそらくは黒に近い濃紺で描かれた海とが、不気味に広がっています。私は美術館の売店で、その絵が印刷された絵葉書を買い求め、チューリッヒに戻ってから毎日眺めています。でもどうしてその絵が気になるのか、まだよくわからずにいます。少なくともこの絵からは、春の気配を感じることはできません。

夢セミナー、夢に向き合う態度

これまでにも何度か、ベルリンで開催されたその分析家のセミナーに参加していますが、今回特に印象に残ったことのひとつは、夢に対する彼の態度でした。真剣に夢に向き合い、夢が伝えようとしていること(無意識からのメッセージ)を読み取ろうとします。その真剣さの度合いが、彼と私との間で決定的に異なる点だと痛感しました。もちろん夢を理解する力も大きく異なりますが、それ以前に、夢に向き合う姿勢、態度です。
 現代に生きる私たちは、夢に対してそれほど強い関心を抱いていないように思います。少し気になる夢を見ても数日後には忘れてしまいますし、記録を残している方もほとんどいないでしょう。
 でもきっと、小さい頃に見た夢の幾つかは、記憶の片隅に印象深く残っているのではないでしょうか。大人に比べて子供は、夢の世界(無意識)の近くに住んでいるのでしょう。そのため、夢が持っているインパクトを感じやすく、記憶にも定着しやすいのだと思います。
 私はほぼ毎日夢を見ます。そして毎朝夢を記録して、どんなメッセージが私自身に向けられているのか、なんとか読み取ろうとします。たとえば1つの置き物を、正面から見たり背後から見たり、時にはひっくり返して観察したりするみたいにです。夢に出てきたイメージについて、本で調べることもあります。でも正直に言えば、わからないことばかり、というのが実感です。もやもやが募ります。それでも私は毎朝夢を記録し、それを前にしてウンウン唸っています。わかってもわからなくても、ウンウン唸ることを日課にしています。
 夢を見ること自体は難しくありません。人は毎晩、幾つか夢を見ていることがわかっています。でも覚えていられないのです。夢を見たことは覚えていても、それがどのような内容だったか思い出せないという経験を、皆さんもお持ちでしょう。
 でも私は、毎朝夢を覚えています。なぜでしょう? 答えは簡単です。夢を見ることに興味を持ち、関心を向けているからです。印象的な夢を見て夜中に目が覚めたときには、その内容をメモしておくこともあります。興味や関心、つまりエネルギーを夢見ることに向け続けていると、だんだん夢を覚えていられるようになります。大げさに言えば、夢を見ることも1つの訓練なのです。無意識が送ってくるメッセージに対する、私たち自身の態度の問題とも言えます。このような訓練を積み重ねる目的の1つは、子供のこころに近づくことかもしれないなと思います。夢が持つインパクトを、知的に意味付けすることなく(自我の枠に閉じ込めることなく)、そのまま受け取るということです。
 古代に生きた人たちは、現代に生きる私たちよりもはるかに夢に関心を持ち、それを大切に受けとめていました。古事記や聖書にも夢の記録はありますし、親鸞上人の夢の記録も残されています。大事な書物に夢が記録されているという事実が、古代における夢の重要性を示しているといえるでしょう。

アスクレピオスと夢見ること、そして私の空想

医療関係者であれば、アスクレピオスの名前は耳にしたことがあると思います。ギリシア神話に登場する医学の神で、彼が手にしている蛇の巻き付いた杖は、医学の象徴としてさまざまに用いられています。たとえばWHOのシンボルにもアスクレピオスの杖があしらわれていますし、日本医師会のロゴにもヘビが用いられています。
 しかし、アスクレピオスを祀った古代の神殿で、実際にどのような治療が行われていたのか、ご存知の方はあまり多くないのではないでしょうか。古代の人たちは、治療をどのように考えていたのでしょう。
 その時代に治癒を求めた人たちは、アスクレピオスを祀った神殿を訪れ、そこで眠り、夢を待ったのです。夢を見ること自体が治療でした。良い夢を見るまで、長く滞在した人もあったようです。神話学者のカール・ケレーニイは、「この治療の道に特徴的なのは、神が眠りと夢によって求められるという点である。眠りのなかで病人は自分のまわりの人びとから、また自分の医師からも関係を断ち、自分自身の内部に起こる出来事に直接身をゆだねる」と述べています。
 このような事実を思う時、私は次のように空想します。傷ついた人たちは、遠く離れたアスクレピオスの神殿を目指して旅立ちました。きっと平坦な道のりではなかったでしょうし、時間もかかったことでしょう。傷ついていればなおさらです。それでも人は、治療を求めて歩き続けました。夢を見るために、遠く離れた土地を目指したのです。
 夢を見るために彼らが費やしたエネルギーの大きさに、私は驚嘆します。彼らにとって、夢は決して幻などではありませんでした。現実に意味のあるものとして、真摯にそれを受け取っていたのです。そしてそのような彼らの態度は、私の中で、先の分析家の態度と重なりあって見えます。
 私が訪れたベルリンの博物館島にあるペルガモン博物館には、ペルガモンという地に造られた祭壇(「ゼウスの大祭壇」)が展示されていますが、そのペルガモンにもアスクレピオスを祀った神殿がありました。私はその事実を、ベルリンから戻った後に知りました。古代の人たちが夢見るために目指した土地の名残がある場所に、それとは知らずに私も訪れていたのです。そして私も、ペルガモン博物館で居眠りしたわけではありませんが、ベルリンでとても印象的な夢を見ることができました。
 私はさらに空想します。古代の人たちが夢見るためにアスクレピオスを祀った神殿に向かったように、私は夢見るためにチューリッヒに来たのかもしれない。自分のこころに近づくために、日本から遠く離れたチューリッヒに来る必要があったのではないか。そんな風に、古代の人たちの足取りと、自らの歩みを重ね合わせてみたりします。

傷から治癒へ、冬から春へ

『医神アスクレピオス』のあとがきで訳者の岡田は、「冥界に関係するキロン(アスクレピオスに医術を授けた半人半馬:林注)は、不死の身でありながら癒しがたい傷に苦しむ異形の神であった。ケレーニイによれば、このキロンが代表する医術は、治療者自身が自分の傷に苦しむことで得た治療の知識にほかならないという。かれは病の暗闇にとどまり、だがそれだからこそ患者を回復に導く萌芽が発見でき、また太陽に向かう転換を、アスクレピオスの誕生を不思議な力で呼び出せたのである。そして医神アスクレピオスが輝きあらわれるのも、まさに治療が必要な人間の暗闇をとおしてだった」と述べています。
 医学は人を癒すことを目指す一方で、どうしても死から逃れることができません。生と死の両方が、医学には本質的に内在しています。キロンもそうですが、アスクレピオスも輝かしいだけの神ではありません。光と同時に闇を内包しています。どうも医学というものを考えていくと、神話におけるその起源からして、傷や死といったものから逃れられないようです。そしてそれは、キロンやアスクレピオスがそうであるように、治療者自身の暗闇に至ります。しかしその暗闇こそが、光に至る道なのです。だからこそ私たち医療関係者は、本当の医術を身に付けるためにも、自分自身のこころに向き合うことが必要なのです。
 はじめに触れた絵の中の僧侶は、彼(もしくは彼女)のこころの中にある傷に深く沈潜し、向き合っているのかもしれません。その深い傷つきが、暗い空と海によって強調されているように感じられます。でもそのような過程を経てこそ、治癒や救いといったものが訪れるのでしょう。冬の後にしか、春が訪れないのと同じように。
 私もここチューリッヒで、春の訪れを待っています。あと、もう少しです。

 参考文献
 カール・ケレーニイ著, 岡田素之訳『医神アスクレピオス』白水社

林 公輔(はやし こうすけ)
精神科医。医学博士。福井医科大学(現福井大学)医学部卒。慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室、特定医療法人群馬会群馬病院等を経て、2016年3月より、International School of Analytical Psychology Zurichに留学中。
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