TPPと医療――個人的な見解と双極うつ病を巡る問題まで
杏林大学保健学部教授 田島 治
短期間で株価の上昇と円安を成し遂げたアベノミクスの勢いに、消費税増税に反対する声やTPP反対論の影が薄くなっています。新聞では東京都が医療特区の構想を打ち出し、日本の医師免許を持たない外国人医師による診療、わが国では認可されていない海外の先端医療を行うことなどが報じられています。しかし、実際のところはTPP断固阻止を唱える農業団体の関係者や、混合診療の導入によって国民皆保険制度が崩壊すると、導入阻止を主張する医師会の関係者、その他直接導入によって影響がすぐに及ぶ関係者以外は、その実態がなんなのか、どんなメリットやデメリットがあるのかは、多くの一般の日本人にはよく分からないというのが正直なところです。ネット上には子どもにも分かる解説でおなじみの池上彰氏のTPP問題の解説も紹介されていますが、それでも本当のところは導入されてみないと分かりません。
TPPとは
TPPのフルスペルをすぐに言える人は少ないでしょう。これは環太平洋戦略的経済連携協定の略語で、今から8年前に始まったものです。現在、中国を除いた太平洋に面する11カ国で加盟や交渉が行われており、日本も交渉参加を表明しましたが、最終妥結までの残された時間は限られているのが実情です。これは原則として加盟国の関税を撤廃し、輸出を促進するとともに、物以外の保健や金融、医療などの非関税障壁も撤廃し、加盟国の経済を活性化しようというものです。当然のことながら多くの補助金や関税によって守られている日本の米や農業が、価格競争力を高めない限り崩壊するリスクがあるのは予想されることです。たまたま最近ボストンに滞在し、韓国系の安売りのスーパーで買い物をしましたが、そこで売られている米やその他の食料品の価格のあまりの安さに驚きました。こうしたカリフォルニアの高品質の安い米が、日本にそのまま輸入される事態に短期間で対応がはたして可能なのか危惧されます。とはいえ日本の農業を担う人々の平均年齢は66歳と高齢化しており、何もしなくても後継者不足により崩壊するリスクはあります。
医療とTPP
医療に関しても医療保険の自由化や混合診療、すなわち健康保険の診療と高額の自費診療の組み合わせが自由化されれば、なし崩し的に国民皆保険制度が崩壊する危険はあります。同じ北米でもカナダは国民皆保険で、知り合いの米国人はカナダの薬局に薬の買出しに出掛けていました。薬価制度のないアメリカでは、薬や医療の価格は需給関係で決まります。ボストンのマサチューセッツ総合病院を訪れたときも、ガン医療で国際的に有名なテキサスのMDアンダーソン・ガンセンターを訪れたときも、患者中心の落ち着いた雰囲気の建物や内装、多くのボランティアが働く病院内の様々なサービスなど、日本の病院には見られない優れた設備やサービスが存在するのに感心したのも事実です。友人に付き添ってMDアンダーソンを訪れたときに、そうした感想を述べたところ、すべて金次第と言われたのが記憶に残っています。そうした市場原理主義のアメリカの医療制度の問題を、コミカルにドキュメンタリータッチで紹介したマイケル・ムーア監督の2007年公開の映画「シッコ」を見た方も多いかもしれません。そこで対比されたのは、経済苦境に悩みながらもアメリカと対立する社会主義国家キューバの医療制度でしたが、キューバの医師団は世界のあちこちに出稼ぎに行っているのも事実です。
TPPでは農業などの関税問題だけがクローズアップされていますが、実は医療や保険、金融など、国によって制度や規制が異なるため外国の企業が参入しにくい、あるいはできない領域の問題、すなわち非関税障壁の方がもっと重要です。TPPにいったん参加すると原則として離脱は困難で、しかも一度自由化や規制緩和が行われた条件は、あとから取り消すことが出来ません。協定結果は国内法よりも優位とされるため、外資の訴訟により莫大な賠償金を請求されたり、法律の改正を行わざるを得なくなったりする可能性もあります。
日本も成長戦略の一環として日本の優れた医療機器やシステムを輸出しようとしています。医薬品も莫大な利益を生む成長産業の一つとなっていますが、はたして医療を成長産業として市場原理で捉えることが、多くの人にとって望ましいことなのでしょうか。亡くなった父親は、田舎で小規模の有床診療所を戦地から復員後開設しました。国民皆保険制度は昭和36年から実施されましたが、昭和20年代後半や30年代初めには、保険のない農家の人などは病気をしてもなかなか医者にかかれないのが実態でした。重症になった農家の患者さんが、大八車に布団を敷いて、寝かされて連れて来られる姿をよく目にしたものです。手術や治療を受けた後も治療費が払えず、秋の収穫の時期に米で物納する農家も多かったため、家の大きな米びつには、色々な農家から治療費代わりに持ってこられた様々な品質の米が入っていたのを覚えています。国民皆保険となってからは、昼夜を問わず診療や往診に追われていた父親の姿が目に浮かびます。いつでもどこでも自由にかかれる日本の医療は世界では稀なものですが、これがいつまで維持できるかは時間の問題です。
アメリカ型の国民皆保険を目指すオバマ大統領の医療改革は始まったばかりですが、自由を第一とするアメリカ人からは、社会主義的と批判や抵抗も強いようです。安心して普通の医療が受けられるためには、わが国ではヨーロッパと同じような、ある意味で社会主義的な医療制度の存続が望まれるのではないでしょうか。
市場原理の医薬品開発と双極性障害の急増を巡る問題
ピューリッツァー賞も受賞したジャーナリストであるウィッタカーの著書『心の病の流行』には、アメリカ型の診断と医療によって、うつ病や双極性障害と診断される人が過去20年間に急増し、使われる向精神薬も著しく増加した一方で、無期限にこうした薬を服用しているにもかかわらず、公的な扶助を受けざるを得なくなった精神障害者の数も激増していることが指摘されています。毎年クリスマスカードを送ってくれるアリゾナ大学の教授の娘さんは、小さい頃から利発で将来を期待されていました。ところが大学に入って恋愛問題で悩んでうつ状態となり、自殺未遂を図って精神科に入院したことを知って驚きました。写真で見る限り素敵な大人の女性へと成長していましたが、実はその後入退院を反復するうちに双極性障害へと診断が変更され、生涯にわたる服薬と医療の継続を伝えられていることを知りました。日本でもうつ病患者が100万人まで急増しましたが、アメリカ同様、長期に不安定なまま治らない人も増え、新たな気分安定薬の発売や非定型抗精神病薬の適応拡大もあいまって、双極性障害のブームが起こっています。これは本当にクレペリンのいう躁うつ病の現代版なのでしょうか。SSRIなどの新規抗うつ薬の幅広い使用による、副産物の可能性はないのでしょうか。賛否両論が渦巻いています。
筆者はアメリカの若手精神科医として注目されていますナシア・ガミーとエル-マラークの編集による『双極うつ病―包括的なガイド』を翻訳し、2月末に星和書店より上梓しました。この問題に関する、世界の双極性障害の専門家の意見、すなわち主流派の意見をまとめたものです。今日のうつ病を考える上で欠かすことの出来ない、「双極性」という問題を考える一つの手がかりとなる本として是非お勧めしたいと思います。
最後になりますが、アメリカ精神医学会による精神障害の診断と統計による手引の第五版(DSM-5)が、まもなく登場する予定です。それを前にしてアメリカ精神保健研究所(NIMH)の所長であるトーマス・インセルは、今後NIMHの研究には独自の研究用の診断基準を用い、DSM-5を用いないことを発表し大きな波紋を呼んでいます。精神医学のバイブルと呼ばれ、今日の精神障害者急増の背景となったDSMの最新版の登場を目前にしての大ニュースです。まさに終わりの始まりともいえる現象かも知れません。
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