不定愁訴について思うこと
聖路加国際病院 心療内科 太田大介
こころと体の結びつきに惹かれて私が心身医学の道を志してから、20年以上がたちました。
心身症患者に対して、私はこれまで、「身体症状は体からの悲鳴です、体の声に耳を傾けてあげて下さい」と幾度となく患者に語りかけてきました。身体症状をきっかけに生活全般を見直すように指導もしてきました。しかし、どういうしくみで身体症状とこころが結びついているのか、そしてどういうしくみでこういった生活指導が身体症状を落ち着かせるのか、いまだに私にはわかっていません。心身相関のメカニズムは、フランツ・アレキサンダーが心身医学についての著書(訳書:『心身医学』、フランツ・アレキサンダー著、末松弘行監訳、学樹書院、1997)を著わしてから60年以上たった今日でもわからないことばかりです。原因不明の身体症状は一般に不定愁訴と呼ばれていますが、心身医学領域では、あるいは総合診療の領域でも、もっとも治療が難しい分野の一つといえるでしょう。
身体症状には意味がありそれによって患者が守られている側面がある、というのは心身医学では言い古されたことですが、私もその意見に共鳴する一人です。腹痛発作を繰り返していた老婦人は、無意識のうちに家族への怒りを抑圧することで家庭崩壊を避けていました。背部痛に苦しんでいた一人暮らしの女性は、娘を嫁がせた後の寂しさをこころの奥深くにしまいこんでいました。心身症の背景は人それぞれです。日々の診療では、そういった患者の話を聞きながら、その背景について様々な仮説を頭の中に思い浮かべています。
もっとも、実際の診療現場は、そんな思索を待ってはくれません。新たに訪れる患者さんを日々診察し、治療方針を立て、時に処方し、時に入院させ、また落ち着いた患者さんに紹介状を渡す、という作業を追われるように繰り返しています。
そのような私にとって最近の癒しは1歳半になる子供です。彼は、朝から窓の外の景色に向かって声をあげ、ラジオから流れる音楽に合わせて踊り出し、興味を引いたものにむかって走っていきます。意味のある言葉はありませんが、周囲とのコミュニケーションは何とかとれていて、不自由はありません(おそらく)。言葉というコミュニケーションに頼らずに、彼はいま独自の時間と世界を生きているように見えます。私達は大人になる過程で、自分の意思を言葉にすることや、周囲の状況に合わせて行動することが求められます。社会化の過程でこころは若干窮屈な思いをすることになります。その極端な状態が心身症であり、周囲に合わせてうまく適応する代わりに自分のこころが犠牲になってしまっているのです。そう考えると、子供のような心身未分化な状態の方が私達は生き生きと暮らせるのかもしれません。これを不定愁訴に当てはめれば、いったん大人になった患者がより心地よい状態として心身未分化な状態に戻っているとみることもできます。各種のストレスを受け、耐えがたい状態からの避難場所といってもよいでしょう。
西洋医学は心身を峻別し分析することで発展してきた経緯があり、不定愁訴も例外ではありません。最近、ヨーロッパの臨床医らが不定愁訴についての解説書をまとめています(『不定愁訴の診断と治療』、星和書店)。そこでは、不定愁訴の診断上の課題にはじまり、不定愁訴がいかに専門科ごとに細分化されているのか、それらの患者に使われる医療費がどれだけか、などについて詳細な分析が行われ、これからの課題が論じられています。そして、そのような心身を峻別する西洋医学の伝統から生まれた本書が提案しているのは、各専門家が自分の専門領域を中心に部分的に不定愁訴を診療するよりも、不定愁訴を全体としてチーム医療の中で診ていくことが重要であるということです。それは医療システムを巻き込んだテーマであり、達成するまでには困難を伴うことでしょう。しかし日本でもまた独自の工夫を加えながら実施することは可能だろうと思います。今日の医療は専門分化が進んでいますが、身体症状と精神症状を未分化なまま受け止める懐の深さを私達の医療が持つことが出来れば、不定愁訴もより治療しやすいものになるのではないでしょうか。
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